第9話
係長や課長、次長をすっとばして2年前に部長に昇格したのが佐野部長で、責任感が強く、他部署の人たちからも人望が厚いので適任だと思った。
でも、いつも笑顔で明るく振る舞っているので、疲れないのかなと少し心配に思うこともある。絶対に弱音を吐かない佐野部長。わたしたちの前では愚痴とか溢してくれてもいいのにな。ご飯に連れて行ってもらった時にでもさりげなく聞いてみようかな。
階段で5階に上がる。
5階には総務部の書庫の他、大量印刷の為のコピー機が3台置いてある部屋がある。大体このコピー機は広報部の人たちが使っているが、今は誰もいなかった。書庫の前の認証システムに社員証をかざして中に入る。本屋さんと同じ匂いのする書庫が、わたしは結構好きだった。紙とインクの匂い。優子に言わせれば『変態』らしい。
一目散に全社員分の履歴書が保管されている棚に行き、一番右下でしゃがむ。持ってきた鍵を差し込んで開け、本社経理管理本部総務部3人分の履歴書が入ったファイルを取り出す。佐野部長の次にわたしの履歴書が入っていた。相生朱莉、当時23歳。証明写真のわたしは、大学の就活セミナーで習った通り清潔感を出そうと前髪をヘアピンで留め、後ろ髪も束ねている。化粧もナチュラルメイクで清楚系を醸し出していた。
就活していたころに戻りたいとは微塵も思わないが、歳だけ若返って欲しいとは思う。猫型ロボットはわたしの前にも現れてくれるだろうか。
同じ階の大量印刷用コピー機で自分の履歴書を1部だけコピーして、岡田くんの待つ総務部へ戻った。
「どうして顔写真は黒く塗り潰されてるんですか」
岡田くんにコピーした履歴書を渡すと、そんなことを言われた。白黒でコピーした履歴書は、写真が異常なほどわたしではなくなってしまったのと、過去の自分の顔写真を男の後輩に見せたくなかったので、油性ペンで塗り潰しておいた。何重にも塗ったおかげで、机に色写りしてしまった。どうすんのこれ。消しゴムじゃ消えないんだけど。
「顔写真なんか無くたって、それは紛れもなくわたしの履歴書だからいいでしょ」
わざわざ書庫からコピーして持ってきたんだから文句言わないで欲しい。岡田くんに任せてやってくれた、営業の名刺を束ねていると、わたしの履歴書を見ていた岡田くんが質問してきた。
「朱莉さん、血液型は?」
「A型」
「誕生日、10月5日って、何座ですか?」
「てんびん座だけど」
「彼氏いたことは?」
どさくさに紛れてなんてことを聞いてくるんだ。
「……その情報必要?」
「はい、色々知っていないと勘繰られるんで」
どうも自分の個人情報を易々と後輩に提示しているのが解せない。元カレの話なんてどうでもいいだろうがと思いつつ、別に減るもんじゃないかと開き直って答える。
「20歳の時に半年ほど」
「それだけ?」
「悪かったわね」
えーえー、28年生きてきてたった6ヶ月しか付き合ってませんよ。キッと岡田くんを睨むと、彼は肩をすくめた。わたしは話題を変えることにする。
「あ、そうだ。佐野部長がね、岡田くんともう少し距離を縮めたいって言ってたよ」
今は不在の部長席に目をやる。岡田くんもチラ、と一瞥して小さくため息をついた。
「俺、部長のこと、ちょっと苦手なんですよね」
「え、なんで」
「だって、いつも笑顔で何考えてるか分からないじゃないですか」
何考えてるか分からないのは無表情のキミも同じじゃないか。
思わず口から出そうになって、慌てて飲み込んだ。
そうか。岡田くんには佐野部長がそう写ってるんだ。感じ方は人それぞれ。千差万別、十人十色。
「わたしには、笑顔の下に苦労が見えるけどな」
「え?」
「佐野部長って、弱音吐かないんだよね。それ無理でしょっていう案件も、『大丈夫』って言って本当に通しちゃう。すごい努力家で、でも微塵もそんな姿は見せなくて、いつも笑顔で場を明るくしてくれるの。それって、真似できることじゃないんだよね。わたしは、佐野部長を尊敬してる」
尊敬している人のことを苦手だと言われて、思わず熱弁してしまった。でも、嘘はない。わたしは本当に佐野部長を尊敬していた。仕事も出来て、かつ気配りも出来る。手は届かないが、わたしも佐野部長のような先輩になりたいと思っている。
「朱莉さんがそう言うなら、もう少し歩み寄ってみます」
素直な後輩も、嫌いじゃない。頷くと、岡田くんは再びわたしの履歴書に目を落とし、熱心に読み始めた。面白いのかそれ。
「明日ですけど、午後2時に姉貴が家に来るので、朱莉さんは1時くらいに来てもらえますか?」
「別に大丈夫だけど……なんで?」
「まぁ、色々、キッチン周りとか家のことを知っておいてもらおうかなと思って」
「はぁ……」
新卒のペーペーが住む家なんて、ワンルームのアパートだろう。どうせ部屋が汚いから掃除してもらおうとかそういう魂胆かな、と思っていたのだが……
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