第8話
翌日。わたしと岡田くんは何事もなかったかのように、自席で仕事をしていた。カチャカチャとパソコンのキーボードを叩く音がする。
わたしたち総務部がある経理管理本部は、経理部や人事部など色んな部署がひとつの部屋で仕事をしている。総務部は入口から一番遠い区画を割り当てられており、壁際族だ。自由にコーヒーを淹れられる給湯室も一番遠い。まぁ、わたしはそんなにコーヒーを飲まないので別にいいけれど。
あれから名前呼びに加えて、もうひとつ決め事が増えた。
『会社では今まで通り、先輩後輩として振る舞う』
プライベートでの偽装カップルなので、仕事に持ち込まないようにそう決めた。もちろん『朱莉さん、岡田くん』だ。わたしは大人で切り替えが早いので、公私混同はしない。
「朱莉さん」
右隣の岡田くんに話し掛けられ、営業部からFAXで届いた名刺作成依頼書を確認していたわたしは、ペンのノック部分をこめかみに当てたまま声だけで返事した。
「んー?」
「ちょっとこれ見てください」
何かの書類かな、と思ってわたしの机上に置かれた紙を見る。A4用紙にパソコンで打たれた文字が並んでいるそれの一行目に目を通す。
『岡田慧斗(23) 7月14日生まれ かに座 AB型』
なにこれ。住所と卒業した学校名、アルバイト歴なんかも書いてある。履歴書?
岡田くんを見ると「俺の情報です」と、さも当たり前のように言った。
「偽とはいえカップルなので、知っておいた方がいいかと思って」
「……これ、いつ作ったの?」
「さっきですけど」
それを聞いて、わたしはもらったA4用紙を勢いよく裏返した。
「あんた仕事中になにやってんのよ!」
思わず大きな声が出た。経営管理本部が静まり返る。わたしは「すみません」と身を小さくした。ヤバい、総務部には後輩に声を荒げるお
当の岡田くんは反省していないような顔で「すみません」と謝った。
「わたし、これ覚えなきゃいけないの?」
「いえ、そういうわけではないですけど。知っといてもらえたら後々便利かなと」
後々ねぇ……半分だけ表に返して見る。取得した資格まで書いてるよ……履歴書は総務部で保管するので、岡田くんのは見てるから知ってるんだけど。
「朱莉さんの個人情報ももらっていいですか」
「え、これわたしも作るの?」
「はい。お願いします」
マジか。まぁ急ぎの書類はないし、佐野部長もいないからいいかな、とパソコンで作成しようとして、手を止めた。面倒臭いな。
わたしは鍵穴の付いた引き出しから鍵の束を掴むと、立ち上がった。
「履歴書取ってくる」
名刺作成依頼書を岡田くんに預けて、わたしは部屋を出た。
1つ上の階の5階は書庫になっていて、そこに履歴書やらいろいろな書類が保管されている。1階分くらいは階段で上がるかと、エレベーターを素通りして重い階段のドアを開けると、下から佐野部長が上がってきていた。
「あ、お疲れ様です」
「おお、相生さん。お疲れ」
余裕の顔で4階まで階段で上がってきた佐野部長は、相変わらず笑顔が爽やかだ。独身らしいが、彼女はいるんだろうな。聞いたことないけど。
「あれ、書庫に行くの?」
「ああ、はい。3ヶ月前に退職した人の履歴書とかを処分しようかと思って」
「そっか。手伝う?」
「いえいえ、1人で大丈夫です」
本当は自分の履歴書を取りに行くなんて言えない。佐野部長の優しさを無下にしてしまったことに胸を痛めながら、「それじゃあ」と5階への階段を1段上ったところで「相生さん」と呼び止められた。
「はい?」
「あー、えーと、そのー……」
佐野部長の目が泳ぐ。どうしたんだろう。首を傾げて言葉を待っていると、佐野部長は頬をポリポリ搔いた。
「岡田くんと、うまくやってる?」
まるでわたしと岡田くんが付き合ってるみたいな物言いに、少しドキッとした。偽装カップルをしようとしていますなどとは口が裂けても言えないので、悟られないように努めて冷静に頷く。
「はい。最初は取っ付きにくいなぁと思ってましたけど、どうやら人見知りなだけみたいで、段々と心を開いてくれてます」
なんせ恋人役やってくれなんて頼まれるくらいだからな。
そんな事情を知らない佐野部長は、「そっか」と心底ホッとしたような顔をした。
「俺もあんまり岡田くんとコミュニケーション取れてないからさ、ちょっと不安なんだよね。距離があるっていうの? 今度、飯にでも誘ってみようかな」
「いいと思います。その時はぜひわたしも誘ってください」
「ははは。相生さんはちゃっかりしてるなぁ。あ、電話だ。げ、経理部部長……」
佐野部長は「はい佐野ですー」と電話に出ながら、わたしに片手を挙げて階段のドアの向こうへ出て行った。
いつも忙しそうに立ちまわっている佐野部長は、わたしが入社した時は同じ平社員だった。当時は全員で5人ほどいたが、部署の細分化によって仕事量が減り、少数精鋭になってしまったのだ。だからといって3人は削りすぎだと思うが、残業するほど忙しくはないし、猫の手も借りたいほど忙しくもない。結局は3人が妥当な人数だった。
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