第6話
翌日の朝。怒りは少し収まった。あんまり考えるとハゲるので、早々に切り上げることにしたのだ。大人になると、切り替えの早さは武器になる。
電車を降り、会社に向かって歩いていると隣に背の高い後輩が並んだ。一瞥だけくれてやる。
「おはようございます」
「おはよ」
周りにはわたしと同じようなOLっぽい人やスーツを着たサラリーマン、犬の散歩をする婦人が一様に歩いている。
横断歩道の信号に引っかかった。
「あの、朱莉さん。昨日の事なんですけど……」
そう切り出され、わたしは信号機だけを見て言った。
「昨日? なんかあったっけ?」
「えっ」
平然としているわたしに対して、チラと盗み見た岡田くんは少し驚いた顔をした。おお、初めて見たそんな顔。
わたしはハゲるほど考える前に、昨日のことは無かったことにした。優子と1杯だけ飲んで、家に帰った。それはそれは平和な日常の一夜に過ぎなかった。それだけ。
大人になると、記憶を捏造することも武器になる。
「いや、さすがに無理ありますよ」
珍しく焦った様子の岡田くん。
「じゃあ謝ってくれる?」
「すみませんでした」
「はい、じゃあこの話終わり」
信号が青になった。知らない人たちと一斉に歩き出す。
ここの横断歩道は真っ直ぐ前を向いていないと、誰かとぶつかる。
無言で横断歩道を渡りきって、岡田くんが口を開いた。
「朱莉さん。相談があるんですけど、夜時間くれませんか?」
「相談? わたしに?」
「はい」
おお、後輩から相談なんて初めてだ。え、ちょっと、先輩っぽくないか? なんか嬉しい。
自分の先輩が相談とか乗ってくれたことを思い出し、そういえばわたしには岡田くんしか後輩が居ないんだと思い返す。自分の先輩がやってくれたことは、わたしもやりたい。
怒っていたことは一旦横に置いて、わたしは頷いた。
「いいよ。
***
実働7時間45分の仕事を終え、岡田くんとお刺身が美味しい魚蔵家という居酒屋に来た。昨日優子と飲んだ八十郎がある通りの1本隣の魚蔵屋は座敷タイプの個室で、話をするのにはうってつけの居酒屋だ。ここは刺身がべらぼうに美味しい。
お互いに生ビールと適当な刺身を頼んで、向かい合わせに座った。
「で、相談ってなに?」
わたしはおしぼりで手を拭きながら、話しやすいように話を促す。岡田くんは小さく頷いて、はっきりと言った。
「俺の恋人になってくれませんか」
「失礼しまーす。生ビールと刺身盛り合わせでーす」
頭にハチマキを巻いた店員さんが、料理を持ってきた。入口の方に座っていた岡田くんがそれらを受け取る。
えーと。岡田くんはいつから宇宙語を喋るようになったのだろう。
──オレノコイビトニナッテクレマセンカ
「ごゆっくりどうぞー」と店員さんが去ってから、わたしは岡田くんに問いかけた。
「ごめん。ちょっと分からなかったから、もう1回言ってくれる?」
「あ、ごめんなさい。
「……ドラマ撮影か何か?」
「いや、恋人のフリをして欲しいんです」
生ビールのジョッキを差し出された。とりあえず受け取って、乾杯もせずに喉を潤す。美味しいんだけど、よく分からない。逡巡して、岡田くんを見据えた。
「話聞くから、イチから話してくれる?」
理解力のない先輩だと思われたくなかった。後輩がこうしてわたしを頼ってくれているので、解決策を一緒に考えようと思っている。いくら突拍子のない相談事だったとしても、なるべく協力してあげたかった。
「はい、分かりました」
岡田くんもジョッキに口を付けてゴクッと一度だけ喉を鳴らすと、テーブルに置いて話し始めた。
「昨日の人は姉貴で、ブラコンなんです。俺に幸せになって欲しいからって、縁談を持ちかけられて、お見合いさせられそうになってて。本当に嫌なので、昨日朱莉さんが通りかかって咄嗟に『付き合ってる』と嘘つきました。彼女がいればお見合い話はなくなるかな、と思って」
こんなに岡田くんの声を長く聞いたことがあっただろうか。表情はあまり変わらないが、本当に困っている感がヒシヒシと伝わってくる。
そうか、昨日の美女はお姉さんだったのか。美男美女
「話は分かった。お見合いが嫌だから彼女がいると言って、お見合いをやめさせようってことね?」
わたしの確認に、岡田くんは頷いた。
っていうかお見合いって、今の時代でもするんだ。しかもセッティングはお姉さん。お姉さんから愛される岡田くん……全然想像がつかない。わたしは一人っ子なので姉弟愛というものがよく分からないけど、大切な家族が幸せになって欲しいと思うことはよく分かる。
そんな愛情を騙そうとするのは、どうしてだろう。
「お見合いの何がそんなに嫌なの?」
そう訊ねると、岡田くんは黒縁眼鏡の奥の長い睫毛の目を伏せて、呟いた。
「……俺、結婚とか、興味ないんで」
隣の席では女子会を開催しているらしい。甲高い声でギャハギャハ笑う声がする。
わたしと岡田くんは会社の先輩・後輩で、話しかけても素っ気ない無愛想な彼とはソリが合わないと思っていた。
「……岡田くん。わたしたちは同盟が結べるよ」
たった一言でシンパシーを感じた。これは、運命のような衝撃。
『結婚とか、興味ないんで』
「同盟?」
「そう。『結婚興味ない同盟』! わたしも激しく同意する。結婚? なにそれ美味しいの?」
「はぁ」
「いいでしょういいでしょう岡田くんに協力しましょう。そして、結婚話なんて蹴散らしましょう!」
テーブルに置いた岡田くんのジョッキに、自分のジョッキを当てた。コンっと鈍い音がする。そのままゴクゴクと飲み干し、口からジョッキを離した。ああ、少しぬるくなってしまっている。
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