第5話
時刻は午後9時。まだ週の半ばなので、お互い1杯だけに留めて、解散した。
優子は駅前から徒歩圏内に自宅があるので、八十郎の前で別れて、わたしは駅の改札口に向かって歩く。
6月初旬の夜は過ごしやすくて好きだ。夏みたいによく分からない虫やカエルの合唱コンクールは開催されないし、冬みたいにガタガタ身体を震えさせなくてもいい。春最高春万歳。
周りにはスーツを着崩したサラリーマンや、ヒールをリズムよく鳴らすOLの人が同じ方面を向いて歩いている。道行く人の顔には覇気がない。それはきっとわたしも同じだろう。一人の時は誰だって無表情だ。
改札が見えてきたところで、何やら男女のシルエットが見えた。なんだろ、と遠目で見ていると、女性の金切り声が響き渡った。
「愛するケイくんの為を想って言ってるのに!」
おいおい週の真ん中の夜に痴話げんかかよ。
特に興味は無かったが、改札を通らないと帰れない。周りの人たちもチラチラと見ながらそそくさと改札を通っていくので、それに
男性の方が、ついさっきまで優子と話題にしていた後輩に似ていたからだ。
少し離れていても、黒縁眼鏡の下に見える顔が端正であると分かる。そして何より、女の人が取り乱しているというのに、他人事のような目で彼女を見ていて、表情の乏しさはまさに後輩の岡田慧斗だった。
「ごめんけど、気持ちは受け取れない」
口では謝っているが、顔が謝っていない。誰に対しても無表情なんだ。
なぜかわたしは冷静に岡田くんへの感想を心の中で呟いた。
あれ、そういえば今日、岡田くんに『彼女いるか』と聞いたけど『いない』って言ってたな。じゃああの女の人は誰だ?
ショートカットがよく似合う小さな顔で、耳には雫型の赤いピアスが着いている。腰が絞られた花柄のワンピースを纏い、真っ赤なハイヒールを履いた人は、対峙する岡田くんとそう背丈が変わらない。スラッとしていてモデル体型だ。
ボーっと2人の様子を目だけで見ていたら、岡田くんがわたしに気付いて目が合ってしまった。
あ、ヤバい、なんとなく嫌な予感がする。
昔から第六感というものが優れていて、自分に対する危険だけ察知する能力が備わっていた。授業中当てられそうだ、とか、自転車が飛び出してきそうだ、とか。
この後輩は、わたしを使って彼女との言い合いを終わらせようとする気がする。逃げなければ。
「朱莉さん」
2人に背を向けたと同時に手首を掴まれた。やっぱり、と思ったが、掴まれた手の冷たい温度に驚いて顔を向ける。
目の前に岡田くんの顔があって、ドキッとする間もなかった。あまりにも美しい顔立ちに、ただ見惚れた。
「俺、この人と付き合ってるから」
「えっ」
肩を抱かれ、そう紹介された。は? 何言ってんのこの人。
近付いてきた彼女の顔が、歪んだ。上を向いた長い睫毛と大きな目。ザ・美人。なるほど、岡田くんの好みはそういう系なのか。悠長にそんなことを思った。
「
美人に下から上に
まぁ確かに大企業のくせして制服がないから大体ブラウスにタイトスカートという、いかにもOLっぽい服装で仕事してますけどそれが地味だと?
岡田くんの彼女か何か知らないけど、初対面の人に地味だと面と向かって言われるのはちょっといただけないな。
「んだとこら」と睨みつけてやろうとしたら、岡田くんは「本当」と言ってわたしの肩を抱き寄せていた手をわたしの頭に持ってきて、グイと岡田くんの方へ向かされた。目が合ったと同時に顔が近付き、え、と思った時にはもう唇に柔らかい感触が当たっていた。
ゆっくりと離れた顔を、わたしは目を見開いて見ることしか出来ない。初めて至近距離で見る岡田くんはやっぱりイケメンで、でもその表情から感情は読み取れなかった。
突然見せつけられた行為に、女の人はうろたえた様子で一歩後ずさると、「路チューなんて破廉恥!」と声を上げ、「今日のところはまぁいいわ。また来るから」と言って、わたしたちの前から姿を消した。すれ違う人々は「何も見てません」というような顔で、気まずそうに歩いている。
わたしは頭の処理能力が機能しておらず、固まってしまった。
えーと? わたしはこの後輩に何を言われて、何をされた?
脳内録画を巻き戻して再生する。
仕事が終わってスマホに優子から呼び出しメッセージが届いて、一杯だけ飲んで、優子と別れて、改札前にショートカット美人と言い争う岡田くんがいて、見つかって肩を抱き寄せられて、女の人に地味だと言われて、岡田くんの顔が近付いて……
「……!」
唇に柔らかい感触が蘇ってきた。思わず口元に手を添える。
「あの、朱莉さん」
別にキ、キスなんて初めてじゃないし、アメリカじゃ挨拶だし、全然大したことじゃないけど。
「朱莉さん?」
顔を覗き込まれて、岡田くんの唇に目がいった。元カレとしたキスの感触なんてもう覚えてないけど、こんなに柔らかかったっけ……って何考えてんだわたし!
「お、お疲れっしたぁぁっ!」
「え、ちょっと、朱莉さん!」
わたしは改札目がけてダッシュした。カバンから定期パスを取り出すより前に身体を通してしまって、ピコーンと柵に行く手を阻まれる。うっわ、恥ずかしっ!
慌ててパスを改札にタッチしてホームへの階段を駆け上がった。
うわーうわービックリした!
思い出しただけで身体が熱くなる。耳から心臓が出そうだ。バクバクいってものすごくしんどい。
いや、お、落ち着け朱莉。一度ゆっくり深呼吸しよう。吸ってー吐いてー。ひーふー。
3回くらい繰り返して冷静になってきた。よし、いいぞ。
『俺、この人と付き合ってるから』
岡田くんの言葉が脳裏に蘇る。突然わたしは岡田くんの恋人に仕立て上げられた。なんで? たまたまわたしが通りかかったから? いや意味わかんない。
しかもあろうことか、キ、キスまでされた。唇に指でそっと触れてみる。掴まれた手は冷たかったのに、唇は温かかった。
思い出してまた鼓動が速くなる。28にもなってキスでドキドキするなんて。
久しぶりだからか? 久しぶりだからこんなに動揺してるのか? わ、分からん!
いやいや、よく考えろ。おかしいじゃないか。なんで付き合ってもいないのに肩を抱き寄せられ『付き合ってる』などと言われたのか。先輩の唇まで奪いやがって。
照れが段々と怒りに変わってきた。
目的はなんだ。身体か? 首を下にもたげて自分の身体を見る。真っ平な胸を通り過ぎ、視線はつま先へ一直線。うん、身体目的ではなさそうだ。って誰がまな板よ!
こんな一人漫才をさせるなんて。
あの残念な顔だけイケメン黒縁眼鏡後輩マジ許さん。
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