バイエルンのブンデス・リーガへの昇格
バイエルンの歴史は1900年にまで遡るようです。第1次世界大戦、第2次世界大戦の時代にもプレーは続きました。ミュンヘンにあったスポーツクラブ(つまりサッカーだけではなかった)が母体で、そこに所属していた11名の選手が登録したのが初だとされています。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/FCバイエルン・ミュンヘン
1926年に南ドイツのタイトルを獲得、1932年にもドイツの選手権のタイトルを獲得したとありますが、どちらかというと優勝回数は少ない方だと思われます。ただこれらの優勝時の監督・会長がユダヤ人だったことには着目すべきで、どちらかというとユダヤをルーツに持つ人たち「も」含む、クラブがバイエルンだったと考えるのが自然だったと思われます。これらについては著作・レポートも書かれているようです。
さて、ドイツでは1962-63シーズンまで各地域リーグの優勝クラブ参加によるトーナメント(ドイツサッカー選手権)で国内チャンピオンを決定していましたが、1963年に全国リーグであるブンデスリーガが創設されることになりました(Wikiから引用)。現在に続く、ブンデスリーガですが、それまでのドイツ各州のリーグを合併してできたものでした。ライセンス、特に財政規律の確保されていないチームには罰則が加えられるリーグで、その意味で、財政の規律が緩い他のリーグと違いがあると考えられます。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/サッカー・ブンデスリーガ_(ドイツ)
ブンデスリーガは最初は西ドイツ内の各州のリーグが参加し、のちに東ドイツのチームが加わる形で発展してきました。バイエルンのブンデス・リーガへの参加は1965年、最初は南ドイツの地域リーグで歴史があり、地域のチャンピオンであった1860ミュンヘンが参加して、次いでバイエルン・ミュンヘンの参加が認められることになりました。その経緯については、以下のコラムに詳しく書かれています。
https://note.com/miasan25/n/nbd8a603a89c9
このコラムによると、バイエルンの成功は、1年遅れのブンデスリーガへの参加にあったとあります。1年ブンデスリーガへの参加が遅れたために、バイエルン・ミュンヘンは予算規模が小さい状態で下部リーグから昇格することを強いられることになりました。そのため、育成に力を入れ、その中から、ベッケンバウアーやマイヤーのような綺羅星のような選手が誕生することになったのです。
ベッケンバウアーについては、もともと1860ミュンヘンのユースへ行く予定だったが、練習参加で殴られたとのことで、こちらのバイエルン・ミュンヘンを選んだとも言われています。自由な雰囲気をもったユースだったのではないでしょうか。
また昇格からブンデスリーガでDFBポカールの連覇までを成し遂げた監督のズラトコ・チャイコフスキーの功績も見逃すことができません。
バイエルン・ミュンヘンの監督の推移については以下の記事が、翻訳記事なので怪しいですが、かなり詳しい情報を与えてくれます。
https://ja.namu.wiki/w/FC%20바이에른%20뮌헨/역사
これによると、まずズラトコ・チャイコフスキー、ついでブランコ・ゼペック、そしてウド・ラテックという優秀な監督が指揮し続けたことが、バイエルンの基礎を築く上で、大きな役割を果たしたことになっています。
ズラトコ・チャイコフスキー
https://ja.namu.wiki/w/즐라트코%20차이코브스키
もともとチャイコフスキーは優秀な監督で、1FCケルンで全国のタイトルを取っているような監督でした。しかし契約交渉で決裂、1部の優勝チームから去り、2部の無名のチームにやってくることになったのです。
しかしバイエルン・ミュンヘンにきてからの彼の活躍は素晴らしいものでした。地域リーグを昇格、ブンデスリーガ1年目から3位の好成績を収め、DFBポカールを制覇、そして翌年にはヨーロッパタイトルである、カップ・ウィナーズカップをバイエルン・ミュンヘンにもたらしたのです。
チャイコフスキーの跡を継いだブランコ・ゼペックも優秀でした。ついにブンデスリーガで優勝、タイトルを獲得します。ユースやマネジメントで集まった選手が活躍し、バイエルンは成績面で黄金時代を迎えることになります。
その時代を象徴するのが、次の監督、ウド・ラテックです。
ウド・ラテック
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウド・ラテック
ウド・ラテックは1972年からブンデスリーガを3連覇、バイエルンの優位を確立します。また1974年からは欧州のヨーロピアン・カップ(現在のチャンピオンズ・リーグ)を3連覇しました。この時代はあのデットマール・クラマーが指揮をとっていたはずですが、国内ではやや振るわなかったようです。
この時代のバイエルン・ミュンヘンのサッカーは、中央突破の徹底と、「爆撃機」ミュラーのゴール能力を最大限に活かした、センターライン重視のサッカーだったそうで、サイド攻撃を活かした他のチームとは全く違ったものだったと伝えられます。しかしのちには、バイエルンのスタンダードが、ドイツのスタンダードとなることになるのです。
このようにバイエルン・ミュンヘンは、1965年のブンデスリーガ昇格から、ヨーロピアン・リーグ3連覇まで、栄光の時代を迎えました。
それにはもともとの小さな予算による「育成」を主体とした文化、「優秀な監督」、そして成功が成功を呼ぶという連鎖があったのです。
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