第2話 脈道 / 闇医者の診察

 都内の至るところにある“混成迷宮巣”は、文字通り複数の異界の出入り口となっている。迷宮巣の発生ポイントは、空間の歪みによる強力な磁場が働くことも多く、結果として方位磁針コンパスがすっかり無用の長物と化してしまう。この問題は衛星写真をフィードバックするダイレクトマッピングで、ある程度はなんとかなっているものの、一昔前は地軸の磁力に依拠したそのような小道具があったこと自体、忘れ去られかかっている。

 迷宮は文字通り、ひとを惑わせるのだ。


 混成迷宮巣へつらなる“脈道”。

 これは迷宮巣の出入り口の射角におおよそのあたりをつけて、木材や金属板などで最低限に舗装した細道である。

 都内の迷宮巣は多くが地表から低空に出現し、ここの混成巣では、それを囲うように脈道が配置された。

 まさしく整備された数々の脈道こそが、異界の入り口を『巣』とまで形容せしめているのだ。


 梛木が崩落したばかりのそこへ駆けつけると、青年が下敷きになっていた。その連れと思わしき青年が、折り重なった角材をかきわけている。


「手伝う」

「あんた――、どうして」

「いいから!

 死なせたくないんでしょう!?」


 ふたりにまごついている時間などない。

ㅤ協力して角材をのけると、怪我をして気絶した青年を担ぎ出す。


「広い道に出て、救急呼ぶから」

「ダメだ、そいつ保険証持ってない」

「なん――あぁ、そういう……仕方ない、ついてきて」

「――」


 手伝う彼は、終始梛木に当惑している。

 その理由、梛木には『ほとんど』見当がついていた。


「いいのかよ、本気で」

「黙ってきなさい、行き場なんてないでしょう?」


 異界へ行く行かない云々はさておき、八年前、迷宮巣の出現で迎えた荒廃は、世界そのものをそれこそ『迷宮』へ変えてしまったやもしれない。

 脈道に覆われた“巣”そのものより、それが醸成した社会では、迷宮巣へ出入りする探索者とその生活を支えるシステムがあっという間にできあがった。

 ただそれは「探索者しかほかに道を選ぼうとしない、あるいは選べないような」人間弱者を名声で囲うということであり、急速に発達する業界にはつきものの、不健全な資本体制や反社会組織の隠れ蓑としても機能している。

 すると迷宮巣にまつわる、政府からの各種対策は後手にまわり続けていた。

 特に昨今、探索者の“派遣事業会社”で名が挙がるものは、最大手でさえ、名ばかりの人員をかき集め、探索ノルマを課して安い費用でこき使っているまである。

 探索に行き来するだけなら、そこに専門知は要らないからだ。実際梛木だって、初歩的なサバイバル経験と低域を徘徊する場数なんかをそう呼んでいいなら、すでにそうした企業らの求めるところの“探索者”として最低限の要項を満たしている。


 だけどユイさんやひさめさんは、当初のそういう梛木の姿勢を「プロを目指すものの姿勢ではない」ときつく糾弾した。

 人命を軽んじ、探索者を使い捨てる派遣会社の姿勢を知った梛木も、早いうちにそうしたものとは距離を置くことになったが――ひさめの忠告がなければ、自分は今でもああしたものに、こき使われたんだろう。

 ユイさんが心配しているのは、私がまたそのような失敗を重ねることだろうし、実際、探索者を目指すなら本来もっと入念な下準備が必要だ。


(知識や人脈がなくていいなら、派遣会社でもよかったけれど……それじゃダメだ。特に私みたいなのは。

 だけど、このままだと時間が足りない――水瀬さんへ、早くたどり着かなきゃなのにッ)


 梛木のなかにはこの八年、向こうの水瀬とその身体がいつまでもつかの焦りがある。同時に、自分の出自とそこから来る身の程というやつに、いやほど翻弄されていた。

 十分ほどして、彼女は近くにあるテントの幕を持ち上げる。


「急患連れてきましたよ、診てもらえる?」

「あらぁ……ちょうどお昼にしようってときに、仕方ないわねえ、まともな金蔓ならいいけど」

「……またキメてました?」


 闇医者の窯崎かまさきもまた所属する医大でデスマーチの最中、ハイプラーナなる薬をキめてたら医師免許剥奪されたらしく、そんなこんなで褒められた人間ではないものの、


「今時どこも人手不足よ、霞が関の官僚がキメてたって話もそう珍しくないでしょう? みんな表立ってやらないだけで、こんなの程度問題で元来どこにでもあるものよン。あなたはよく想わないのは知ってるけど。

 適法違法なんて、警察や検挙する側の点数稼ぎに使われるだけだから」

「それでまんまと引っかかってる人が言うのは、いささかみっともなくないですか。……でこの子、診ていただけるんです?」

「どれ」


 来るもの拒まず、この辺りの知る人ぞ知る『先生』である。

 無論、そういうことをしていればこの安っぽい仮設の診療所には、反社の人間やその抗争がまんま持ち込まれることだって珍しくはない。


「な、なぁこのひとって」

「窯崎さん?

 腕は確かだよ」

「云うて払う金なんて……」

「軽い脳震盪ね、足の怪我は止血してあるけど――ま、ここにいるなら大した機材もないし、寝かして安静にしとく以上のことなんてできないわよ。その程度でぼろうなんて考えちゃいないけど」


 部屋の隅には、募金箱と思わしきものが置かれている。


「社保の負担するウン万とか言わないけど、うちの設備投資で納めてもらってる。財布は見分させてもらうけど」

「――」


 青年は渋るが、梛木が肩を掴む。


「諦めて。踏み倒したら、それこそ地獄の果てまで追いかけられるわよ」

「『先生のためなら』って私の手足になってくれる、仁義に篤い人らは多くてねぇ」


 言っている隅から、気絶した患者の懐を探っていた。


「え、俺も払うの?

 こいつは?」

「私は紹介料で負けてもらってプラマイゼロだから。

 そもお世話にならないし」

「てめぇマジかよ!?

 俺だって大した持ち合わせないのにッ――」

「ん」


 窯崎はにこやかに手を伸べるが、目元は笑っていない。


「この子はうちに泊めおくから、入院費を含めて一日当たり――ぐらいねぇ」

「ひぃッ、さっぴいててこれかよ、足元見やがって!!?」

「残りは潔く、動ける方が体を張って払いなさい、でなければ……あなたからまず売り飛ばすわよ、ちぎってね」


 それでも本来の相場からは半額くらいと安いらしいが、反社がまともな保険に入っているわけもなければ、この男は絶対に踏み倒しを赦さない。


「頼んだ俺が馬鹿だった!?」

「あらやだ、あなたらその子に感謝はしても、怒る資格なんてないんだからね?

 普段から欲をかかず、真っ当な職についてれば、うちみたいのの厄介にはならないんだから。

 保険証がないはおろか、どうせろくな身の上じゃないでしょう」

「ぅぐっ――」

「……っつうわけで、窯崎さん。わたしこの辺でお暇しますね」

「あぁ、ありがとう」


 梛木が診療所を後にすると、無傷な方の青年は肩を怒らせている。


「あのアマ」

「追いかけるのは勝手だけど、あの子に手を出すのはよしなさい、悪いことは言わんから」

「どっかのボスと仲が良いとか?」

「私が言ってるの、そういうのとは違うんだけど――ちょっと気味悪いのよね」

「――わかった、金のほうはそのうち工面する。

 ただいまその忠告は正直、聞いてやれるかわかんねぇんだわ、おっさん」


 自分はあの少女のせいで、いらん損をしかけている。

 青年にはそれだけで、怒るに十分な理由なのだ。

 血気盛んに飛び出した青年の背中を見送って、窯崎は嘆息する。


「ダメねあの子、……あれは喰われるわ」

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