第23話
「今日から学校なんだな」
ゴールデンウィーク明け、すれ違う絶望に満ちたサラリーマンの顔を拝みながら、ぽつりと呟く。
少し前まで自分もあちら側の人間だったのだ。まあ、俺には休みなんて贅沢なものは無かったが、仕事始まりの絶望感はよく理解できる。今ばかりは学生でよかったと、しみじみ思うほどだ。
「おはようございます、水垣君」
そんな事を考えていると、聞き慣れた声が後ろから聞こえた。振り向けば、そこにいたのは文乃さんだった。
「ああ、おはよう。今日は随分と早いのだな」
「ええ、まあ。たまには、早く出てみようと思いまして」
俺はそう言うと、後ろからやって来た文乃さんと歩調を合わせる。
そういえば、昨日スマホで登校時間がどうとかのやり取りをしたような気がする。きっとそれでこの時間に登校したのだろう。
「水垣君、朝早いんですね」
「そうだな。誰も居ない教室が好きで、早めに登校している」
「誰も居ない教室ですか?」
「ああ。なんだか非日常感があって、結構いいぞ」
「そうなんですね」
文乃さんは機嫌がよさそうにニコリと笑う。
「この時間は、皆さんまだ登校していないんですね」
「ああ、まだ朝練の時間だからな」
そこまで言ったところで、不意に右手の小指がこそばゆくなる。視線を落とせば、俺の小指と文乃さんの小指が絡み合っていた。
文乃さんを見てみれば、頬赤く染めたまま微かに俯くだけで、何も言わない。
少し体温の低いしなやかな指が、しっかりと絡みつく。
「…………」
「…………」
互いの体温を感じつつ、俺たちはゆっくりと学校へと向かう。そして、学校が目と鼻の先まで来たところで、俺は名残惜しさを感じながらも、するりと指を抜いた。
もし誰かに見られれば、面倒事になるのは目に見えている。
「……私は職員室に用事があるので、先に教室に行っていてください」
「ああ」
彼女はそう言って足早に去って行く。
俺は彼女の後姿を見ながら、まだ残る彼女の体温を微かに感じていた。
◇ ◇ ◇
放課後、いつも通り図書室で本を読む。しばらくぶりの図書室は、たった数日空けただけなのに、どこか懐かしく感じる。
俺はおもむろに手帳を開くと、その感覚を手帳に書き記した。こうしていると、心を形に残しているようで、どこか安心する。
「……相変わらず、早いんですね」
その声を聞いて、俺はパタンと手帳を閉じる。
「そう言う文乃さんも、随分と早いじゃないか」
声の方を向きながらそう言えば、視線の先で文乃さんは口元に手を当てながら、ふふっと微笑む。
「これでも、結構急いできたのですけどね。水垣君には敵いません」
「……今日の委員会はいいのか?」
「今日はお休みなんです。とは言っても、生徒会で遅れるみたいなので、それまでは私が見ていますけど」
機嫌のよさそうに彼女はそう言って笑う。まあ、この図書室に人なんてほとんど来ないので、本当に形だけなのだろう。
この学校の隣には、大きな図書館がある。しかも、自習室のような勉強部屋まで完備されているので、大抵の生徒は量も質もいい図書館の方に流れる。つまり、わざわざ廃れた図書室に来る物好きは、ほとんどいないのだ。
「文乃さんも大変だな」
「水垣君も居ますし、案外そうでもないです」
彼女は声を弾ませてそう言うので、俺は奥歯がむず痒くなる。なるほど、こういうところがきっと、勘違いしてしまうところなのだろう。いいところでもあるのだが、悪いところでもある。
「文乃さんも大概だな」
「何の話ですか?」
「いやなに、こっちの話だ」
そう言って手帳を鞄にしまうと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「それより、今日は随分教室が騒がしかったが、何かあったのか?」
「あー、いえ、その……」
文乃さんは言いづらそうに口をもごもごと動かす。どうしたのだろうと思ったが、俺は彼女の言葉を待つ。
「この前、一緒に遊園地に行ったじゃないですか」
「ああ」
「その、愛莉ちゃんと一緒にいた子に見られていたみたいで、その時の事が噂になっていて……」
「なるほど、そういうことか。すまなかったな」
「いえ、そこはいいんですけど、その……」
「……?」
「……やっぱり、秘密です」
そう言って文乃さんは、どこか蠱惑的な笑みを浮かべた。その瞬間、ドクンと心臓が強く打つ。
「そう、か……」
彼女の顔を直視できなかった。胸が妙にざわつく。頬が熱を帯び始める。俺は、どうにもこの顔に弱いようだ。
「そう言う日もあるか……」
俺はそれだけ言って、口をつぐむ。
「そうですね。そう言う日もあるかもしれません」
蠱惑的な笑みのまま、文乃さんはこちらをじっと見つめる。
枯れることのない想いが、胸を満たしていく。静かな熱気が、肌を駆ける。
俺はまた、貴方に恋をした。
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