第17話
「さっきは情けないところを見せた。すまない」
涙も収まり、寝ぼけまなこからも覚めた頃、俺は羞恥と申し訳なさから静かに頭を下げる。
「いいですよ、気にしてませんから」
文乃さんはにこやかな表情でそう言うと、近くあった椅子を持ってきて斜め向かいに座る。
「それより、落ち着きましたか?」
「おかげさまで」
俺はそれだけ言って、視線を彷徨わせる。
てっきり、いつもの夢だと思っていた。まさか本物の文乃さんがいるだなんて、誰が予想できるだろうか。
しかも、夢が怖くて情けなく泣きわめいて、挙句の果てには気を遣われる始末。これはなんて思われていたとしても文句は言えない。
「なにか怖い夢でも見ていたのですか? 酷くうなされていました」
「……ああ」
先ほどの夢を思い返して、俺は小さく頷く。
「嫌な夢だった。もう、二度と見たくないくらいには」
「そうだったんですね……」
そう言って、文乃さんは俺の頭を優しくなでた。俺は気恥ずかしさから、文乃さんから視線を逸らす。
「でも、大丈夫ですよ。夢は夢ですから、現実にはなりません」
「ああ……そうだな」
ほんのりと悲しみのこもった彼女の言葉は、不思議と説得力があった。どうしたのだろうと視線を戻した時には、すでにいつもの彼女で、先ほど感じたものは、気のせいだったのだろうかと思えてくる。
「夢は……しょせん夢だよな」
「ええ、そうです」
俺がそう言うと、彼女は朗らかに笑う。
窓から僅かに差し込む、春の終わりを感じさせる日差しが、今だけは少し眩しく感じた。
◇ ◇ ◇
「水垣君」
「……なんだ」
放課後、いつもの席に座る俺の向かいに文乃さんは座ると、彼女は変わらず話しかける。けれど、昼間の気恥ずかしさもあり、一瞬間を空けて反応をすると、文乃さんはふふっと笑った。
「やっぱり、昼間の事、気にしていますか?」
「……まあ、そうだな。出来る事なら、忘れて欲しい」
「分かりました。善処はしますね」
「そうだな、善処はしてくれ」
そう言うと、彼女はじっとこちらを見つめる。その瞳は景色を反射するばかりで、何を思っているのかは想像もつかない。
「……なんだ」
しばらくの間は我関せずを通して本をめくっていたが、つい我慢できずに口を開く。
「その、他意は無いんですけど」
「ああ」
「もしも、水垣君に好きな人が出来たらどうしますか?」
「好きな人か……。好きにも種類があるが、そうだな……」
俺は文乃さんをまじまじと見てから、どうなんだろうと考える。質問の意図こそ見えてこないが、きっと彼女の事だから、本当に興味本位なのだろう。
俺が文乃さんを好きになった時、どうだっただろうか。何を思っていただろう。
「きっと、何も変わらないだろうな」
「……え?」
「大半の人はどうか分からないが、俺はきっと何も変わらない。勇気が無いんだ。俺には」
もし今の関係が壊れてしまったら、もし嫌われてしまったら、もしある日突然いなくなってしまったら。頭の中を巡る、沢山のもしもが邪魔をする。
俺は怖いのだ。何かを失ってしまうのが、どうしようもなく恐ろしい。
「だから、もし誰かを好きになっても、俺は普段通りであることに努めるだろうな」
「そうなんですね……」
「それにしたって、突然の質問だな」
「えっ……ええ、そう、ですね?」
動揺交じりにそう答える文乃さんがどうにも新鮮で、つい笑ってしまう。
「もしかして、好きな人でもできたのか?」
冗談交じりに聞いてみれば、彼女はピクリと肩を震わせる。かつてないほどの赤面で目を合わせない彼女に、俺の胸はチクリと痛んだ。
そんな気持ちが悟られないように、極めて冷静に精一杯の笑顔で俺は語り掛ける。
「……そうか。その恋、叶うといいな」
そう言うと、文乃さんは朱色に染まった顔で、恥ずかしそうにただ笑った。
茜色に染まった図書室。その日は少しだけ甘くてほろ苦い、そんな放課後だった。
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