第16話
道端で、名も知らぬ花が夕日に照らされていた。
私はしゃがみ込むと、その小さな花にそっと触れる。
彼なら、きっとこの道端に咲く花にすらも、言葉を綴るのだろう。ふと、そんな事を考える。
彼は、水垣君は、言葉の世界で生きている。そのことを知ったのは、つい先日の事だ。
元々、不思議な人だとは思っていた。初めて会った時から、何の邪念も無い澄んだ瞳をしていて、それでいてぶっきらぼう。始めはそんな彼に、少し興味を持ったくらいだった。
けれど、関わるうちに、ただ不器用なだけの人なのだと分かった。それでいて、どうしようもないくらい純粋で、誰よりも人の心を考える、そんな優しい人。
「心を知るには、言葉じゃ足りない、か……」
不意に彼の手帳に書いてあった一節が頭をよぎる。
本当に、水垣君らしい言葉だと思った。水垣君は、病的なまでに言葉を愛している。
それは、びっしりと言葉を書き連ねている、あの手帳を見れば明らかだった。
それ故なのだろう。彼は言葉を慎重に扱い過ぎて、時々言葉が足りなくなってしまう時がある。そのくせ変に優しいから、手を差し伸べられた方は驚いてしまうのだ。
「もし……」
ぽつりと、心の声が漏れ出る。
もし、彼に対するこの想いを言葉にするのなら、何と表せばいいのだろう。
憧れ? 羨望? それとも友情だろうか?
分かっている。そのどれもが違うことくらい。初めて生まれたこの感情を、今はまだ認めたくないだけなのだ。
「ああ、好きだなぁ」
心から零れ落ちた言葉が、喉の奥から微かに空気を震わせる。
きっと、私は水垣君に恋をしているのだろう。彼の不器用な優しさに惹かれて、彼の持つ確かな世界に魅了された。私の世界は急激に、それでいて緩やかに、彼色に染められてしまった。
一度自覚をしてしまうと、胸の内からとめどなく想いが溢れ出す。
温かくて、優しくて、どこまでももどかしい、そんな感情。もしこの想いがいつか終わってしまうとしても、今だけはこの終わる気配のないぬくもりを、大切に抱いていたかった。
◇ ◇ ◇
今日は、朝から眠気がいつもより強かった。だからだろうか、いつもどうでもいいと思える些末な事でさえ、変に感情が揺れ動いてしまう。
ここ数日は特に夢見が悪い。眠りの奥深くに落ちるたび、あの日の事が映し出される。あの日……文乃さんが居なくなった日の事だ。きっと俺に忘れるなと、そう言っているのだろう。
昼休み、眠気の限界に達した俺は、誰も居ない用務員室の奥で静かに目を閉じる。途端に、あの日の光景が目の前に広がる。
奥に輝く夕暮れと、少し寂しそうな顔で隣を歩く文乃さん。どうかしたのか聞いてみるも、彼女は何でもないと、ただ首を横に振るばかり。
『水垣君。きっとあなたにはもう、私は必要ない』
少しの間の後、彼女はそれだけ言って俺の少し先を歩く。次の瞬間、場面は教室に移り変わり、教卓で担任が悲しそうな面持ちで口を開く。
『昨晩、文乃綾さんは……自ら命を……』
ぎゅっと胸が締め付けられる。教師の話す言葉が、耳をすり抜けていく。目の前にいる大人が何を言っているのかが、理解したくなかった。
文乃さん、貴方がいなければ、僕にはなにもない。何もない人間なんだ。
ただ、貴方と話せるだけでよかった。貴方の隣を歩いているだけで、それ以外何も要らなかった。本当に何も要らなかったんだよ。
居なくなるくらいなら、僕も一緒に連れて行って欲しかった。独りに、しないで欲しかった。
徐々に呼吸が浅くなる。嗚咽に等しい涙が、瞳から雨粒みたいに零れていく。何度拭っても、それはとめどなく溢れて止まらなかった。
その瞬間、温かい何かが頬の涙を拭う。涙に濡れた瞳をゆっくりと開けてみれば、心配そうな顔でこちらを覗き込む文乃さんと目が合う。
「ああ、よかった……」
僕は確かめるように、震える手で彼女の頬に触れる。触れた指先からは、温かなぬくもりが、じんわりと伝わってくる。
怖い夢を見たんだ。あなたが死んでしまう、そんなくだらない夢だった。ありえないって分かっているのに、僕は怖くてたまらなかったんだ。
ぼろぼろと涙があふれて止まらない。視界が滲んで、文乃さんの顔もまともに見れない。
「大丈夫ですよ」
ふわりと優しい匂いが鼻を包む。抱きしめられたのだと気が付くまでに、そう時間はかからなかった。その香りに安心するかのように、とめどなく瞳からは雫が次から次へと溢れる。
心に巣食っていた不安と恐怖は、いつの間にか無くなっていた。
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