第11話

「……なぁ、文乃さん。何か用なのか?」


放課後、図書室で本棚からタイトルを選んでいると、時折突き刺さる視線に耐えかねて、俺は少し離れた場所で座る彼女の方を見る。


「えっ……? い、いえ、何でもない、です」


不意に視線が合った事に驚いたのか、文乃さんはビクッと肩を震わせる。

今日の彼女は、どこかおかしい。時折挙動不審になるし、動きも散漫としている印象を受ける。


それに、いつもなら図書委員の仕事がある程度終わった後は、向かいの席に座っていたはずなのに、今は何席か離れた場所に座っていた。

じっと彼女を見つめて考えてはみるが、惚れ惚れする位に綺麗な顔立ちと言うこと以外、何も思い浮かばない。


「……少し聞きたいことがあるんだが、いいか?」

「は、はい」


どうせ、俺は昔から人の心が分からないのだ。考えたところで答えが出ないのであれば、本人に聞くほかないだろう。


「今日は、その、なんだか少し遠くないか?」

「へ⁉ ……そ、そうですかね?」

「もしかして、何か気に障ることでもしただろうか」

「い、いえ、そんな事は……」


朱色に染まった頬を横に振ると、彼女は口ごもる。

やはり、俺が何かしたのだろう。思い当たる節があるとすれば、昨日の事だ。あれは事故だったが、それでもあんなに近くまで接近してしまったのは、嫌だったかもしれない。

俺は席を立つと、彼女の座る向かいに腰を下ろす。


「その……気が立っているのは、恐らく昨日の事だろう? 事故とは言え、俺も不用意だった。すまない」

「あ、その、違ってはいないんですけど、別に怒っているわけではなくて、えっと……」

しどろもどろになる文乃さんに、俺は思わず首を傾げる。

「……怒っているわけではなかったのか?」

「その……私が勝手に色々と考えてしまっただけで、水垣君に何か怒っているというわけではないんです。むしろ私が謝るべきと言うか……」

「……?」


 彼女らしくない要領の得ない言動が珍しく、じっと見つめていると、文乃さんは熟れたリンゴみたいに頬を染めて、ぎこちなく顔を逸らす。


「どうした?」

「な、なんでもありません……」

「……本当にどうしたんだ?」

「なんでもないんです‼」


拗ねたような表情を見せる彼女に困惑しつつも、怒ってはいないという事実に内心ほっとする。


「また機嫌を損ねてしまったみたいで、すまない……」

「ええ、まったくです。本当に、水垣君はそういうところですよ」

文乃さんはそう言ってから、ふふっと笑う。

「でも、まぁ、そこが水垣君の良いところです」

「……そうか?」

「ええ、そうですよ」


よく分からないが、機嫌の直った文乃さんに安堵しつつ、俺は小さく息を吐く。理由など分からなくとも、文乃さんが笑っているのなら、それだけで吉日だろう。


「今日はツイていない日かと思ったが、存外そうでもなかったな」

「何かいいことでもあったんですか?」

「そうだな。今まさに、といったところだ」


俺の言った言葉に首を傾げる彼女が、なんだか愛おしく感じてしまって、自然と笑みが零れる。文乃さんもそんな俺を見てか、柔らかな笑みを浮かべた。


「あ、そうでした」


何かを思い出したように、彼女は鞄から見覚えのある一冊の手帳を差し出した。


「その、すいません。わざとではないんです。この前、図書委員のお仕事を手伝ってもらった日に、間違って持って帰ってしまったみたいで。返す機会を窺ってはいたんですが……」


 渡された手帳を受け取ると、俺は懐かしむように表紙を指でなぞる。

かつて、文乃さんが使っていた手帳と同じメーカーの物。俺は心を記すメモのように使っているが、昔の彼女はそれに写真を綴った。きっと、思い出を忘れたくなかったのだろう。


今なら、その気持ちもよく分かる。


「よく俺のだって分かったな」

「それは最後のページに……あっ……」


 そこまで言って、彼女はしまったというかのように、口元に手を当てる。俺はやっぱりかと思って、文乃さんに苦笑する。

 別にやましいことは書いてはいない。せいぜい、彼女からもらった言葉を咀嚼して、自分なりに拙い世界を綴っただけ。


多少の恥ずかしさはあれど、見られても何の問題も無いのだが、きっと文乃さんは気にするだろう。だって、彼女は繊細なまでに優しいのだから。


「その、勝手に中身を見てしまって、すいません……」

「いや、冗談だ。元々は、適当に管理をしていた俺の責任だしな」


俺は鞄に手帳を入れると、胸の奥にしまっていた思い出に少しだけ触れる。


「でも、そうか。よかった……」


張っていた肩の力が自然と抜けて、胸につっかえていた不安が、すとんと落ちていく。


「嫌われたのかと思って、実は少し冷や冷やしていたんだ」

「……なんですか、それ」


彼女は一瞬ポカンとした表情を浮かべてから、ふふっと柔らかい笑みを浮かべる。


「水垣君が何もしていないのに、いきなり嫌いになる訳ないじゃないですか」


笑い続ける文乃さんを見て、俺もいつの間にか笑みが零れる。彼女の笑顔を見ていると、不思議とこちらも温かい気持ちになるのは、きっと文乃さんが優しい人間だからなのだろう。


「そうか」

「ええ、そうです」


お互いに顔を見合わせて、それから再びクスクスと笑い合う。


なぁ、文乃さん。


かつて貴方は、過去以外に価値はないと言った。思い出以外に意味はないと。でも、価値があるのは、きっと過去だけじゃない。過去を積み上げた現在にも、同じだけの価値が宿ると思うんだ。


そんな事を考えて、俺は雲間から差した夕暮に目を細める。二人で笑い合うこの時間だけが、今はただ愛おしかった。

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