第10話
今日は、朝から生憎の天気だった。曇り空が一面に続き、気分も晴れない。おまけに、いつも使っている手帳まで無くしてしまって、ツイていなかった。
俺は蛇口を止めると、ハンカチで手を拭きながらトイレを出る。
いつも昼休みは、旧校舎で時間を潰すか、適当な場所で昼寝に興じているのだが、如何せん、今日はそんな気分ではない。こんな日は、何もせず家に籠るに限るのだが、学校がある日はそうもいかない。
「おお、水垣。ちょうどよかった」
トイレから出て間もなく、運がいいのか悪いのか、丁度目の前を小走りで通った担任と鉢会う。いや、この担任は話が長いことで有名だから、どちらかと言うと悪いのだろう。
「教室に書類忘れてきてしまってな。悪いんだが、日直の文乃に職員室に持ってきてくれるよう頼んでくれるか?」
「はあ、分かりました」
「頼んだぞ。先生は、これから伊豆まで出張なんだ」
「……そうなんですか」
「実家も近いし、実質帰省みたいなもんかもな。実は先生の実家は飲食店をやっていてな、これがまた結構昔から……」
「先生、お時間大丈夫なんですか? 先ほどは随分急いでいるように見えましたが」
「おお、そうだった。じゃあ、文乃によろしく頼むぞ」
再び小走りで去って行くおしゃべりな担任の後姿を見送ると、俺はため息交じりに教室へと戻る。
どうせ、やることも無かったのだ。まあ、たまにはこうやって時間を潰すのもいいだろう。それに、昨日の事も謝れるかもしれない。
そんな事を考えながら教室に戻ると、周囲を見渡して文乃さんを探す。すると、少し離れた場所で、数人の女子グループの中心にいる彼女を見つける。
俺は彼女たちのグループに近づくと、一瞬迷いながらも声をかけた。
「文乃さん、ちょっといいか?」
その瞬間、女子たちの視線が身体中に突き刺さる。それとほぼ同時に、彼女はハッとした様な顔でこちらを見上げた。
「えっ、み、水垣君。どうしたんで……」
わたわたと慌てて立ち上がろうとする文乃さんは、椅子に足をからめとられて、ふらっと体勢を崩す。
「先生が、教室に忘れた書類を職員室に持って来いと言っていた」
咄嗟に彼女の肩を掴んで支えると、文乃さんはゆっくりと立ちあがる。
「……あ、ありがとうございました」
「構わん。用件はそれだけだ」
恥ずかしそうに赤らんだ顔で俯く彼女にそれだけ言うと、居心地の悪い視線の針から逃げるようにその場を去った。
俺は自分の席に座ると、すぐさま机に突っ伏して深呼吸をする。
あの赤らんだ顔が、昨日間近で見た彼女の表情と重なって、妙に意識してしまう。
「……何考えてんだ」
ぎゅっと目をつぶると、脳裏にこびり付いたあの光景を、心の奥底へと押し込む。
文乃さんは昔から、邪な感情に異常と思えるくらいに敏感だった。きっと、長い間そうやって、感情の機微を感じ取って生きてきたのだろう。
だから、こんなことをずっと考えていたら、すぐに勘づかれて距離を取られてしまうかもしれない。それだけは、何としても避けたかった。
俺は身体の力を抜くと、顔を横に傾ける。廊下の向こうの窓から、雲の隙間から日が差しているのが見える。とても強くしなやかなその光に、俺の頭にはかつての文乃さんの顔が重なった。
俺は静かに目を閉じると、教室の喧騒に耳を澄ませる。
朝から感じていた陰鬱な気分は、いつの間にか消え去っていた。
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