第9話
「思っていたより進んだな」
「そうですね。おかげで明日の分も済ませることが出来ました」
翌日、図書室でじんわり浮かぶ汗を拭いながら、俺は小さく息を吐く。
本日の作業は、俺が本を運び、文乃さんが運ばれてきた本を用紙にチェックするだけのものだったが、如何せんそのスピードが尋常ではなかった。
どれくらいのスピードだったかというと、たまにこちらの運搬能力が間に合わず、文乃さん自身が運んでくるくらいには早かった。
これだけ聞くと俺が遅すぎるみたいに聞こえるかもしれないが、二十冊近いタイトルを一瞬で覚え、三十秒と掛からず作業を終える彼女が早すぎるのだ。
「あまり力になれなくて、すまなかったな」
俺がそう言うと、彼女は微かに髪を揺らしながら首を横に振る。
「そんなことありません。もしかしたら、期限内に終わらないことも覚悟していたので、大助かりでした」
「そうか。なら、よかった」
そこまで話したところで、不意に机の上に置きっぱなしにされた本が一冊目に入る。片付けようと手を伸ばしたところで、文乃さんも俺の視線に気が付いたのか、彼女の方が先に手に取った。
「これくらい私がやりますよ」
「……悪いな」
「ここまで、わざわざ手伝ってくださってくれたんですから、それはこちらのセリフです」
そう言って、彼女は台に乗り少し高い棚に手を伸ばす。すると、彼女はふと何かを思い出したかのように、台に乗ったまま、顔だけこちらに向けた。
「そういえば、水垣君。先生が……」
その瞬間、文乃さんの身体はぐらりと傾き、続きの言葉を紡ぎ終わらぬうちに、ゆっくり床へと落ちていく。
俺は反射的に彼女と床の間に滑り込む。だが、勢いがあり過ぎたのだろう。近くにあった本棚に頭をぶつけ、鈍い痛みが身体を駆け巡った。
あまりの痛みに目をつぶり、必死に痛みが引くのを待ち、それからゆっくりと目を開けると、丁度顔を上げた文乃さんがそこにはいた。
彼女の顔が、ほんの少しでも動けばぶつかってしまいそうな距離にあるという、あまりに突拍子のない状況に、何が起こっているのかを把握する為、俺の頭は数秒の時間を要した。
きっと、文乃さんもそうだったのだろう。お互いにすぐに動くことはせず、状況を理解するまでの間、お互いただ静かに見つめ合う。
艶を帯びた彼女の髪が枝垂れて、まるで世界を隔てるカーテンみたいに、視界を狭める。微かに感じる彼女の重みから、じんわりと熱が伝わる。
揺れる瞳、微かに赤らんだ頬、僅かに触れる息遣い。それら全てが、鼻の先がぶつかってしまいそうな距離で、形のない何かが確かな熱を帯びていく。
「あっ……」
どれくらいの時が経ったのだろう。一秒が、五分にも十分にも引き延ばされたような時間感覚の中で、先に動いたのは文乃さんだった。
彼女は目にもとまらぬ速さで起き上がると、数歩後ろに下がって、すっと背を向けた。俺はぶつけた頭をさすりながら、少し軽くなった身体で起き上がる。
「……怪我はなかったか?」
「…………はい」
声をかけては見るが、少し長い間の後、彼女はそれだけ言って、じっと黙り込む。
恐らくは、さっきの事で気分を害してしまったのだろう。事故とは言え、あんなにも密着してしまったのだ。無理もない。
「……何と言うか、さっきは」
「きょ、今日はありがとうございました。そ、その……お先に失礼します‼」
声をかけるよりも先に、彼女は鞄に私物をすさまじい勢いでしまうと、そのまま駆けていく。
謝罪をする間もなく去って行った彼女の後姿を思い返しながら、俺は静かに椅子に座った。
「……一体、俺は何をやっているんだ」
未だ胸の奥で燻る熱を吐き出すと、俺は静かに目を閉じる。瞼の裏側に、さっき見た彼女の表情が、睫毛の先まで鮮明に浮かび上がる。
「……それは過ぎたる欲だろ」
再び熱を帯び出したそれに、俺は誰に言うでもなく吐き捨てると、ゆっくり両手で顔を覆った。
望んではいけないと分かっているのに、さっきの光景が焼き付いて離れない。捨てると決めた感情が、溢れ出して止まらない。
鼻の奥で、彼女の香りが燻っている。この熱は、しばらく冷める気配がなかった。
◇ ◇ ◇
肺がズキズキと痛んだ。走り過ぎて、身体が新鮮な空気を求めている。
「はぁ……はぁ……」
玄関にへたり込むと、私は頭を抱える。
どうして逃げてきてしまったのか、自分でも分からなかった。ただ、胸が苦しくなって、あの場に居られなかった。
彼の、水垣君の顔が、鮮烈に蘇る。いつもは隠れてよく見えない目も、香りも、色白な肌まで、まじまじと思い出される。
塗音がドキドキし過ぎて痛い。私は落ち着こうと椅子に座ると、不意に開きっぱなしになっていた鞄から、見覚えのないものがあることに気が付いた。
「これは……?」
手に取ると、それはすぐに手帳だと分かった。開くと、一面びっしりと言葉が綴られていた。どうやら日記帳のようなものみたいだったが、時折、詩のようなものも綴ら
れていた。
手帳の言葉に触れていくうちに、次第に心は落ち着いていく。羅列された言葉達には、妙な親近感がわいた。
まるで、必要としていたパズルのピースが埋まっていくように、どこか満たされていく。
最後のページに着くと、そこには私の名前が綴られていた。そこから、この手帳の持ち主が頭に思い浮かぶ。
「水垣君……」
この手帳は彼のものだ。きっと、帰りに間違えて持って帰って来てしまったのだろう。
彼の見ている世界が、私の心に広がる。それを振り払おうとすると、帰り際に見た彼の顔が頭をよぎって邪魔をする。
頬が熱を帯びる。
初めて感じるこの感情に、戸惑いが隠せなかった。
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