第8話

一人置いて行かれた階段の踊り場で、私は小さくため息を吐く。一体何をやっているのだろうか。そんな思いが胸を巡る。


彼の前だと、どうにも調子が狂う。何を映しているのか分からないけだるげな眼。その瞳の奥には、何も見えない。こんなことは初めてだ。


どれだけ取り繕っても、どれだけうまく隠しても、人間の瞳にはその感情や思惑が少なからず揺れ動く。それなのに彼、水垣君からは何も感じなかった。時折見える感情は、心配と恐怖、それから微かな気遣い。


何か思惑がある人間は簡単だ。嫌われない立ち回りなんて、いくらでもできる。事実、今まで近づいてくる人達は、大抵何かしらの思惑があった。

下心で近づく人、何かしらの恩恵をあずかろうとする人、周りに嫌われない為に取り入ろうとする人。それぞれがそれぞれの思惑で人は生きている。


でも、彼は違った。彼からは思惑をまるで感じない。最初は隠すのが上手な人だと思った。だから、少しからかって試してみた。けれど、彼からは邪なものはまるで感じることはなく、むしろ私の方が取り繕うことが出来なくなっていた。


不思議だった。取っ付きにくい雰囲気なのに話しやすくて、妙に親しみがわく。ここまで純粋な気持ちを持つ人と会ったのはいつ以来だろう。


『なんで、そんなに優しいんですか?』


その一言が、常に喉の奥でこだましていた。

人の騒めきで我に返る。一体どれだけの間、こうしていただろうか。私は階段を降りると、急いで教室に向かう。


先ほどまでの彼の姿が頭の隅に思い浮かぶ。彼の心が気になる。

そんな事を考える、昼下がりだった。


◇ ◇ ◇


「今日は随分と大忙しだな……」


数日が経った放課後。本をせっせこと運んでいる文乃さんを横目に、鞄を机の上に置くと、思わず声が漏れ出る。


今日の彼女は、いつもと違い山積みの本を抱えて、右へ左へと忙しなく動いている。いつもなら、しばらく本を読んでいれば、たまに話しかけてくれていたが、今日はそんな余裕はなさそうだった。


「ゴールデンウィーク前ですから、本の整理や掃除などしないといけないんです」


彼女は一度足を止めて、少し困ったように笑う。小声で言ったつもりだったが、どうやら聞こえていたらしい。


「他の奴らはどうしたんだ? まさか、図書委員が一人って訳でもないだろ」

「それが……皆さんお忙しいようで……」

「……体よく押し付けられたか」


そう言うと、文乃さんは何とも言えない笑みを浮かべる。

どう考えても面倒なうえに、埃っぽい部屋での重労働。確かにやりたがる人はいないだろう。それに今日は、放課後に職員会議がある関係上、先生も手伝ってはくれない。


「随分と薄情なもんだな」


普段はお近づきになろうと、あんなにも持て囃しておいて、いざ面倒事が来れば我先に去って行く。なんとも醜い社会の縮図である。


「ああ、でも、ゴールデンウィークまで、あと一週間はあるだろ? そんなに急がないといけないのか?」

「その……皆さん部活動などで忙しいみたいなので、何と言うか……その……」

「まさかとは思うが、全部一人でやるみたいなことは言わないよな……?」


彼女は答える代わりに何も言わず、困ったように笑う。俺はそんな文乃さんを見て、思わず頭を抱えた。


優しいのは知っていた。それは彼女の美点でもある。だが、馬鹿に優しくしたところで、無駄につけあがるだけだ。そんなことなど、文乃さんであれば、分かりきっているはずなのに、何がそこまで彼女を突き動かすのだろうか。


俺は溜息を吐くと、彼女の元まで歩み寄る。


「手伝わせてくれ」

「いえ、私が引き受けた事なので、私がやらないと……」

「責任感が強いんだな」

「別に、普通ですよ」


 文乃さんは当然だとでもいうように、本を運びながら極めて淡々と答える。だが、やはりキツイ事には変わりないのだろう。僅かに足はふらつき、顔には微かな疲労が見て取れる。無理して頑張るのは、どうやっても見ていられない。


「どうしても手伝いたいんだ。ここは一つ、人助けだと思って手伝わせてはくれないか?」


 俺がそう言うと、文乃さんは若干申し訳なさそうに目を伏せてから、小さく口を開いた。


「……すみません。では、あちらの机の上にお願いできますか?」

「ああ、分かった」


俺は彼女の持つ本を半分持つと、言われた机の上に運ぶ。その時、不意に置かれた用紙の束が目に入る。


「……はぁ、なるほど。新刊が来ていたのか」


机の上に置かれた用紙を手に取ると、思わず溜息を吐き出してしまう。どう考えたって、一人でやれる量ではない。

どうやら、今やっている作業は、全然読まれなくなった古い本を下げて、新しく入って来た本を出す作業のようで、さっき運んでいたのはその古くなった本のようだった。


「本当に図書委員の奴らは、いい性格をしているな……」


外野の俺がとやかく言えた義理ではないが、見る限り少なくとも三人以上でやる作業を一人に押し付けるのは、流石に甘え過ぎではないだろうか。


「すいません水垣君、こちらも運んでもらっていいですか?」

「ああ、分かった」


不満の色を一つ見せず、懸命に働いている文乃さんに少し苦笑して、俺は彼女に頼まれた本の山を少しずつ運び出す。


何はともあれ、彼女が頑張ろうとしているのなら、それでいいのかもしれない。愚かな事ではあるが、彼女が頑張っている姿を見ると、不思議と応援したくなる。


昔から、彼女は何事にも一生懸命に努力していた。それは人柄にも表れていて、様々な人に慕われていた。きっと、そういうところが、彼女の数ある魅力の一つなのだろう。


「水垣君、こちらも運んでもらっていいですか?」

「ああ」


文乃さんらしいその姿に、嬉しさのような、懐かしさのような、何とも言えないその感情に満たされるのを感じながら、俺は彼女の横顔を見ていた。

それからは、ただ黙々と、彼女の指示に従って作業をした。二人並んで本を運び、時折文乃さんが用紙に何か書き込んで、俺はそれに眩しいものを見るみたいに目を細める。


そして、薄っすらと額に汗が滲み始めた頃、校内に下校を告げるチャイムが鳴った。俺たちは、ほとんど同時に顔を上げて、それからほうと息を吐く。


「手伝ってくれて、ありがとうございました」

「役に立ったのなら、それは何よりだ」


少し疲労の滲む顔ではにかむ文乃さんを見て、こちらも頬が自然と緩む。彼女の手際を見ていた限り、俺が必要だったのかは少々疑問が残るところではあったが、それでも喜んでくれるとなると、やはり嬉しい。


「このペースなら、明後日にはほとんど終わりそうだな」

「え?」

「ん?」


俺の言葉に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で首を傾げる文乃さんに、こちらも思わず首を傾げる。


「……もしかして、知らないだけで他に残っていた作業があったのか?」


そうだとすれば、少しばかり面倒だ。いくら文乃さんが三人分以上の働きをして、的確な指示で俺を使い下せるとはいえ、結構ギリギリの戦いになる恐れがある。


「い、いえ、作業内容はその用紙に書いてあるだけなんですけど、その……あ、明日以降も手伝ってくれるつもりなのですか?」

「……? ああ、そのつもりだったが、不味かったか?」

「そんな事は無くて、こちらとしては嬉しい提案なんですけど……」

「ならいいだろう。元々こちらから頼んでやらせてもらっている事だし、乗り掛かった舟だ。最後までやるさ」

「そう、ですか……」

「ああ、俺は先に失礼するよ。じゃあ、また明日」


そう言って鞄を持つと、まだ驚きと混乱抜けきらぬと言った顔の文乃さんに背を向けて、図書室を後にする。

微かに後ろから聞こえる「また明日」の声に、疲労ののしかかっていた肩がすっと軽くなった気がした。

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