第7話

「水垣君、少しいいですか?」


四時間目が終わり、固まった身体をほぐす為に控えめな伸びをしていると、不意に聞こえた声に顔を上げ、そして思わず身体が固まる。


そこには、余所行きの笑顔でニコニコとしている文乃さんがいた。

人を安心させるお手本のような、どこか作り物めいた気味の悪い笑顔。それが、お前は他人なのだと言われているようで、どうにも寂しく感じさせる。


「……構わないが、何の用だ」


俺はそう言うと、机の上の教科書やノートを鞄に押し込む。

彼女が教室で話しかけてくることは、随分と珍しい。回帰前も、そして今も、そんな事はほとんどなかった。俺たちが会話を交わすのはいつも、図書室や放課後の教室など、人目のつかない場所だったから。


『私はさ、人前だと変に取り繕っちゃうから。それを水垣君にまでするのは、嫌なんだ』


以前、文乃さんに気になって聞いた時、彼女はそんな事を言っていた。

あの時の言葉は、当時どこにも拠り所が無かった俺にとって、救いだった。誰にも見向きされなかった俺の存在を、唯一認めてくれているような気がして、何よりも嬉しかった。


だからこそ、寂しいのだ。


「ここではなんですので、場所を変えてもいいですか?」

「……? ああ、構わん」


昔のことに想いを馳せて微かに目を細めていると、予想だにしていなかった提案に思わず首を傾げる。

わざわざ呼び出すほどの用件とはなんだろう。考えを巡らせてはみるが、思い当たる節など無い。


取り敢えず彼女の言う通り席を立つと、俺はふと周囲を見渡して苦笑してしまう。

クラス中から突き刺さる好奇の視線。きっと、針の筵とはこういう事を言うのだろう。


まあ、クラスの人気者が、いつも居るのか居ないのかも分からないような奴を、いきなり呼び出したのだ。気持ちは分からなくもない。


「人気者って言うのも、随分大変なんだな」

「何か言いましたか?」

「いや、なんでもない」


聞こえないくらいの声でそう呟けば、文乃さんが首を傾げるので、俺は小さく頭を横に振る。

ここで変に会話を長引かせれば、どう転んでも角が立つだろう。俺は別に構わないが、後々困るのは彼女だ。それだけは避けたい。


「早めに用件を済ませよう。物見遊山の大名行列を作るのは本意じゃない」

「ふふっ、そうですね」


文乃さんはいつも見せる自然な笑みを一瞬だけ浮かべると、そう言って歩き出す。痛いくらいの視線を身体中に浴びながら、俺は彼女の後をついて教室を出た。




「すいません、突然呼び出してしまって……」


人気のない校舎の端。僅かに陽が届かず、ほんのり薄暗いその場所で、申し訳なさそうに文乃さんは頭を下げる。


「構わん。それより、用件はなんだ?」


俺がそう言うと、彼女は持っていた紙袋から、いつか渡した折り畳み傘を取り出す。


「今日は放課後、予定があってお渡しできそうになかったので、今お返ししようかと」

「別に、そのまま持っていても構わなかったが……」

「借りたものですから、そう言う訳には行きません」

「そうか……。いや、そうだな」


 俺はそれだけ言って、傘を無造作にポケットにねじ込む。

 そういえば昔、一学年上の男子生徒に、何かと理由を付けては、しつこく付き纏われていた時期があったと聞いたことがあった。


きっと、そういう隙を作らない為に、わざわざ時間を空けず、休み明けすぐに返しに来たのだろう。生きていくための処世術とはいえ、少しばかり同情してしまう。


「あの日は本当に助かりました。あの後、体調は良くなりましたか?」

「御覧の通り、問題はない」

「そうですか、大事にならなくて良かったです」

「ああ、お互い身体には気を付ける事としよう」


それだけ言って、俺は文乃さんに背を向ける。本当はもっと話していたいが、いたずらに引き留めても迷惑なだけだろう。


「あ、あの……」

「……? なんだ」


振り返ってみれば、彼女は何かを言おうと微かに口を開きかけ、それから、出かかった言葉を飲み込むみたいに、静かに笑みを浮かべた。


「……なんでもありません。呼び止めてすみませんでした」

「……そうか」


再び背を向けると、俺は歩き出す。

彼女が何でもないというのなら、俺はそれ以上聞かない。ここで変に時間をかけた所で、教室に戻った後の彼女が根掘り葉掘り聞かれて、群がられるのが目に見えている。


『人の価値は心にこそ宿る。心を形に出来る言葉だけが、なによりも純粋で尊いものになりえる。水垣君なら、分かるはずだよ』


階段をのぼりながら、昔文乃さんが言っていた言葉を思い出す。

彼女はさっき、何を言おうとしていたのだろうか。ふと、そんな事を考える。

貴方が紡ごうとしたその価値を、ただ知りたかった。

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