第6話

「……眠れん」


ベッドから起きて時計を見てみれば、夜の九時半。

いつもならまだ起きている時間。だが、一昨日の金曜日、文乃さんに傘を貸してびしょ濡れになってから、ずっと風邪気味なので、早めに体を休めておこうと思ったのが七時。それから依然として、眠気が来る気配はない。


「少し夜風にでもあたるか……」


俺はベッドから降りると、適当な本を一冊手に取って部屋を出る。

どうせ、眠れなくなったのは今に始まった事ではない。回帰前から数えて、もう十年以上も続いている事だ。ずっと眠くて、身体も疲弊しているのに眠れない。そんな毎日。


「いつからだったか……」


玄関で靴を履きながら、誰に言う訳でもなく不意に呟く。

俺は一体、いつからこんな風になったのだろう。昔はもっと純粋で、もっと世界が色付いていたような気がする。


まあそれも、もう随分と昔のことのようで、覚えてやしないのだけれど。


「風邪の時はどうにもいかんな」


立ち上がって伸びをすると、濁った思考を振り払う。せっかく夜風に当たりに行くのに、これでは気分転換にすらならない。

俺は深呼吸をすると、いつの間にか張っていた肩の力を抜いて、玄関に手をかけた。




「まさか当たるとはな……」


夜の八時半。俺は片手で二本のお茶を持ちながら、自販機の前でポリポリと頭を掻く。


「まあ、悪い事ではないからいいか」


強いて言うなら手がふさがって、ベンチに行くまで恐ろしく本が持ちにくいが、たまにはこういう事もあるだろう。


俺は少し離れた川沿いのベンチまで歩くと、街灯をぼんやり眺めながら腰を下ろす。たまにランニングで通り過ぎる人を横目に、栞を挟んだページまでパラパラと指を滑らせた。


「……水垣君?」


どれほど時間が経っただろうか。ふと名前を呼ばれて、ページをめくる手を止める。顔を上げてみれば、少し息の上がった文乃さんが驚いた顔でこちらを見下ろしていた。


「こんな時間に奇遇だな」


 そう言うと、彼女は息を整えながらニコリと笑う。


「私は日課のランニングですよ。水垣君はこんな時間にどうしてここに?」

「眠れなくてな。少し夜風にでも当たろうかと思ったんだ」

俺はそう言って、持っていたお茶を一本彼女に差し出す。

「いるか?」

「……いいんですか?」

「さっき自販機で当たってな。ちょうど持て余していたところなんだ」

「……なら、ありがたく頂きます」


そう言って受け取る彼女を見届けると、俺は座っていた場所を詰めて、再びページをめくる。

彼女はそんな俺を見て、迷うようにしばらくこちらの様子をうかがいながら、静かに隣に座った。


「……その、金曜日はありがとうございました」

「特別な事は何もしていない。……それで、無事に帰れたのか?」

「はい。お陰様で」

「そうか」

内心、ほっとする。少なくとも、迷惑だったわけではなさそうだった。咳で口元を抑えながら、また一ページ指を滑らせると、その事実に自然と頬が緩んだ。

「……風邪ですか?」


心配そうな声が耳を撫でる。俺はその言葉にどう答えようか悩んでいると、ふわりと何か良い匂いが鼻腔の奥をくすぐった。少しばかり顔を動かせば、心配そうにこちらを覗き込む文乃さんと目が合う。


街灯に照らされた、いつもより近くに見える彼女の端正な顔が、心臓の鼓動を妙に速めた。


「熱、あるんですか?」

「……もう引いた」

「本当ですか……?」

「ああ、本当だ」


疑るようにじっと見つめる文乃さんの視線が、どうにも気恥ずかしくて目線を逸らしながらそう答える。

すると彼女は、何を思ったのか、更に疑いを強めたように顔をグイっと近づけた。


「嘘吐いてません?」

「ああ、嘘は言っていない……」

「じゃあ、何で目を逸らすんですか?」

「それは……顔が、近いから……」


そう言うと、彼女は瞳を揺らして、すっと顔を離す。


「ごめんなさい……」

「いや、構わん……」


呼吸を整えて、胸の奥底で暴れる熱を静かに鎮める。徐々に収まっていくそれに、若干の安堵を覚えながら、俺は残った熱を吐きだすように息を吐く。


「……水垣君」


不意に呼ばれた名前に顔を上げてみれば、まだほんのり頬に赤みを残した文乃さんと目が合う。


「……金曜日は、本当に助かりました。でも、それで水垣君が風邪を引いてしまったのは、本当に申し訳ないと思ってて、その、ごめんなさい」


言葉を選ぶみたいに、ゆっくりと発せられたそれらは、罪悪感と、ほんのりと滲む文乃さんの優しさが感じられる。彼女らしい、自責を孕んだ優しさ。


「謝る必要はない」


 でも、だからこそ、そんな言葉は聞きたくなかった。


「俺が勝手に押し付けて、勝手に体調を崩したんだ。自業自得だ」

「でも……」

「それに、言われるなら、謝罪よりも感謝の方がいい。そして、すでに感謝は受け取った。だから、この話はもう終わりだ」


いずれ、その優しさが彼女自身を苦しめる。何でそうなってしまうのかは分からないけれど、どんな形で最期を迎えてしまうのかだけは知っている。

だから、せめて目の見える範囲でだけでもいいから、その優しさはしまっておいて欲しかった。


「……はい、分かりました」


一瞬の間の後、文乃さんはそう言って微かに微笑む。


「じゃあ、改めてありがとうございました。水垣君」

「ああ」


彼女が見せる、その柔らかな表情が、胸の奥底に何とも言えない温かな感情を広がらせる。

気が付けば俺も、彼女につられて微かに頬が緩んでいた。

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