第5話

昼休み、気持ちの良い陽気の中で、遠くに聞こえる喧騒に耳を傾ける。

古びて使われなくなった旧校舎。人のいないそこは、一人で時間を潰すには丁度良いところであった。


廊下を歩く度、木製の床が軋んだ音を鳴らす。時折、気になった教室に顔を出して、部屋の中を散策する。

普段、部活動以外ではあまり使われることのないこの場所は、歩いているだけで、まるで真新しい秘密基地を見ているかのような気分にさせる。


「まだ少し早いだろうか……」


時計を見て、少し考えてから、まあいいかと校舎から出る

今から教室に戻っても、やることも無ければ、友人も居ない身では、相当に暇を持て余す。まあ、でも時間が余るのなら、本でも読んでいればいいだろう。

廊下を歩いていると、見覚えのある後姿が、大量の教材を抱えながら一生懸命歩いている姿が見える。


「……随分な大荷物だな」


不意に声をかけてみれば、彼女は一瞬驚いた表情を浮かべて、こちらを見上げる。


「わっ……。こ、こんにちは、水垣君」

「ああ、こんにちは」


俺は文乃さんの持っていた教材を半分持つと、さっさと歩きはじめる。


「それで、これはどこに持っていけばいいんだ?」

「え、いや、そんな大丈夫ですよ」

「一人より、二人で運んだ方が楽だ。で、どこまでだ?」

「……四組の教室まで」

「そうか」


先を歩く俺に追いつく為に、パタパタと駆けた彼女にそれだけ言って、文乃さんと歩調を合わせながら、廊下を進む。


特に会話を交わすことも無く、教室に教材を置くと、俺は首を鳴らしながら一足先に教室を出る。スマホで時計を見れば、戻るには丁度の良い時間。悪くはない時間の潰し方だ。


「水垣君、さっきはありがとうございます」


教室に戻る途中、いつの間にか隣にいた文乃さんが、そう言って微笑む。


「時間潰しの気まぐれだ。別段感謝されるような事じゃない」

「それでも、私は助かりましたから。だから、ありがとうございます」

「……そうか」


どう言えばいいのか分からなくて、俺はそれだけ言うと、彼女はぽかんとした顔をしてから、ふふっと笑う。


「うん。なんだか、水垣君らしいです」

「そうか……」


ころころとした声が、面白そうに跳ねる。長く伸びた睫毛が、陽の光に反射して煌めく。

綺麗だった。

横目に見える文乃さんの自然なその笑みが、どうしようもなく綺麗で、俺はただ、身体の奥から込み上がる熱に目を細めている事しか出来なかった。




放課後、下校を告げるチャイムを聞いて、俺は凝り固まった背中をパキパキと鳴らして、ゆっくりと立ち上がる。


図書委員の見知らぬ男子生徒以外、誰も居ない図書室。そこはまるで、冬の空みたいに寒々としているみたいで、少しだけ寂しく感じる。


ふと見た窓の外では雨が降っていた。轟轟と降りしきる雨に、少しばかり顔をしかめる。予報では夜から降ると聞いていたが、どうやらせっかちな雨雲がもうやって来たらしい。


「はあ……」


俺は鞄を手に取ると、図書室を後にする。

校内には人の気配はほとんどない。下校時刻だという事もあるだろうが、きっと、昇降口から図書室が離れているのも、そう感じる一因なのだろう。


窓に打ち付けられる雨音が、やけに大きく感じられる。

昔から、雨は嫌いだった。雨が降ると、いつも気分が滅入る。そうして気が滅入っていると、嫌な思い出ばかりが頭をよぎってしまうから、雨は嫌いだ。


「あっ……」


下駄箱で上履きから靴に履き替えていると、不意に声が聞こえた。顔を上げれば、薄暗闇の中で立っている文乃さんと目が合う。


「こんにちは、水垣君」

「え、ああ。……今から帰りか?」

「はい、友達の相談を聞いてたら、遅くなってしまいまして……」

「そうか」


そういえば、昔から彼女は、よく相談役などを請け負っていたなと思い出す。優しい文乃さんらしいと言えばらしい事だ。

靴を履き終え鞄から折り畳み傘を取り出したところで、俺は立ったまま動かない文乃さんに首を傾げる。


「帰らないのか?」

「私は、その……。もう少ししたら帰ろうと思って……」


彼女はそう言って困ったように笑い、言葉を濁らせた。俺は土砂降りの外を一瞬見てから、もう一度文乃さんを見る。


「そうか……」


俺は数歩彼女に近づくと、手に持っていた傘を文乃さんに押し付けるように渡す。すると彼女は、鳩が豆鉄砲を食ったように、きょとんとした顔で俺を見た。


「えっ……」

「違ったか?」

「いや、その……。違わなくは無い、です……」

「そうか。なら、気を付けて帰れ。返す必要はないから」


混乱抜けきらないと言った様子の文乃さんにそれだけ言うと、鞄を上に雨の中を走り出す。

要らぬお節介だっただろうか。冷たい雨に打たれながら、ふとそんな考えが頭をよぎる。


彼女くらいになれば、傘に入れてくれる友人の一人や二人いるだろう。あそこに立っていたのも、後から来る友人を待っていたという事だってあり得る。それに、顔見知り程度の無愛想なクラスメイトが、いきなり傘を渡してきて不快に思う可能性すらあるだろう。


「我ながら、バカみたいなやり方だ」


まあ、文乃さんが濡れて帰る可能性が少しでも無くなるのであれば、それでいい。今更、器用な生き方なんて分からないのだから。


「っ……」


一瞬、後ろから微かに文乃さんの声が聞こえた気がした。けれどそれは、すぐに雨にかき消されていく。

きっと、気のせいだろう。そう思って、水溜まりを踏みつけアスファルトの上を駆け抜ける。

雨脚は強まるばかり。雨に濡れたシャツが、気持ち悪く肌の上を這っていた。

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