第4話

人気のない放課後の図書室。俺はペらりとページをめくって、静かに息を吐く。

入学式からおよそ二週間、俺はこの図書室によく通うようになっていた。それ自体に細かな理由なんてものは無いが、強いてあげるのであれば、一番静かな場所だからだろう。


「……疲れたな」


俺は眉間に手を当てると、読み終えた本を閉じる。

本は良い。知らない世界を好きなように色を塗って、咀嚼して、飲み込む。そうして、出来上がった風景を自分の世界に落とし込み、心を育む。


昔、文乃さんが教えてくれた事だ。


俺は読んでいた本を本棚に戻すと、次に読む本を探す。


「なにかお探しですか?」


不意に駆けられた声で、幾重にも並べられた本の背表紙で踊っていた指が止まる。


「箸にも棒にも掛からない、そんなくだらない話を探している」


聞きなじみのある声にそう答えて振り返れば、文乃さんがぽかんとした顔でこちらを見つめていた。


「……ふふっ、随分と変わった話を探しているんですね?」

「変わり者には相応しい探し物だろ?」


そう言うと、彼女はおかしそうにクスクスと笑った。

懐かしい笑い声。

彼女はこう言うと、いつも決まってクスクスと笑う。クラスでは見るたびに窮屈そうな笑みを崩さない人だったから、自然に笑う顔が見たくて、昔はこんなやり取りをよくしていた。


「それで? 変わり者の水垣君は、一体どんな本を読んでいたんですか?」

「……これだ」

さっきまで読んでいた本を手渡すと、文乃さんは表紙をしげしげと見つめる。

「……そういえば、教室でもずっと本を読んでましたけど、本好きなんですか?」

「まあ、そこそこに好きだな」

「じゃあ、私と一緒ですね」

「そうか」


彼女は近くの椅子に腰掛けると、指でトントンと机を叩く。


「ちょっとお話ししませんか? ほら、普段あまりお話する機会無いですから」

「……ああ」


俺は短く答えて、示されるがまま椅子に座る。

そういえば、初めて彼女と出会った時もこんな感じだったなと思い出した。場所やきっかけこそ違うが、文乃さんらしい温度感。


好奇心が強くて、だけど何を考えているのか分からない。当時はそんな文乃さんが、自分という不確かなものを確かに持っている気がして、どうしようもなく憧れていた。


「水垣君とこうしてお話するのって、確か入学式以来ですよね」

「……ああ、確かにそうだが」

「もしかして、覚えていたのが意外でしたか?」

「まあ、そうだな。クラスであんなに話しかけられていれば、俺なんか記憶の片隅にもいないと思っていた」


事実、現在の彼女の周りには常に人が群がっていた。見ているこちらが、思わずうっとおしく感じるほどの人の量。それを文乃さんは顔色一つ変えずに、いつも笑顔で淡々と対応しているのだから、偉いものだ。


「あー……。あれは昔からずっとですから……。あれこそ、全員の顔と名前を覚えられる気がしませんし……」

「心中察して余りあるな」


苦虫を噛み潰したように渋い顔で笑って見せる彼女の表情が新鮮で、喉の奥から思わず笑い声が漏れ出る。


「でも、水垣君は私から名前を聞きましたから、流石に覚えていますよ」

そう言ってにこりと微笑む彼女の笑顔が、心に静かなさざ波を立てる。

俺は一瞬目を細めると、図書室を見渡すように文乃さんから視線を外した。

「……図書室にはよく来るのか?」

「ええ、まあ……。私図書委員ですし、よく来るって言うか、ほぼ毎日いるんですけど……。やっぱり気が付いてなかったんですね……」

「……なんか、すまない」


あまりにも申し訳のない事に、半ば反射的に謝ってしまう。

ほとんど毎日いる。という事は、その間顔を合わせていたはずだ。ほぼ毎日通い詰めているはずなのに、俺の頭にはそんな記憶、驚くほどない。そもそも、回帰前の彼女は委員会に入っていなかったはずだ。


俺の行動によって未来が変わる。それ自体は何の疑問も無い。文乃さんとの出会いも記憶と違っているし、俺自身が高校生の頃とはまるで変ってしまっている。


だがまあ、それにしたって酷いものだ。物語などでは、好きな人は日常の中でも自然と目に着くと聞くが、どうやら現実はそうでもないらしい。

いや、これに関しては俺の場合は目が節穴なだけか……。


「大丈夫ですよ。薄々、気が付かれてない気はしてましたから……」

「そうか……」

「まあ、二時間も目の前に座っていたのに、一切気が付くそぶりが無かったのは、流石に驚きましたが……」

「本当にすまない……」

「いえ、半分悪戯みたいなものでしたし、そんなに謝らないでください」

「ああ…………」


自分の間抜けさに、僅かにため息が漏れる。

昔から、集中すると周りが見えなくなるきらいがあった。大人になってからは多少良くなったと思っていたが、存外そうでもないらしい。


いや、今は高校生なのだから、昔に戻ったと言うべきか……。


そんなことを考えていると、ふと文乃さんの透き通る胡桃色の瞳と目が合う。


「ふふっ……。水垣君って面白いですね」

「……そうか?」


そう言って、唐突に文乃さんは笑いだす。相も変わらず読めない行動に、俺は微かに首を傾げた。

彼女はそんな俺を見てから近くの窓に視線を移すと、どこか遠くを見るように目を細める。


「不思議ですね。水垣君と話していると、なんだか、懐かしさを感じる気がします。おさまりが良いって言うのでしょうか」

「……そうか」

「ええ、そうですよ?」


きらりと光るその笑顔に、俺はただ合わせるように笑う。

彼女の勘が妙に鋭いのは、今に始まった事でもない。だから、俺は静かに笑う事しか出来なかった。


濃い胡桃色の瞳が、差し込む西日で微かに揺れる。黒く長い睫毛が微かに煌めく。

美しい一枚の絵画みたいだ。

そんなことを考えながら、何も言えずに俺はその姿を目に焼き付ける。


「ああ、もうこんな時間ですね。お話の続きは、また今度にしましょう」


学校中に鳴り響く下校のチャイムを聞いて、彼女はふいに席を立つ。

茜色に染まる放課後の図書室。静かなその一室で、俺たちは緩やかな時間の流れに身を任せていた。

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