第3話

「こればかりは、慣れんな……」


入学式も一通り終わり、俺は教室の隅の席で小さく呟く。

長々と続く先生方のありがたいお話や、祝辞、新入生代表の言葉。それらは別に悪いとは言わないが、いかんせん退屈であくびが出そうになる。


(そういえば……)


ふと思い出してクラスを軽く見渡すと、少し離れた席に座る懐かしい後姿の少女が見えて、じんわりと温かい何かが胸の内に広がる。


そうだ。過去に戻ってきたのだから、当然彼女もいる。その事実が、どこか安心にも似た感情が身体中を巡った。


そんなことを考えているうちに、いつの間にか今後の予定を担任が話し終わり、クラスメイト達がざわざわと話しながら帰り支度を始める。俺も周りに倣うように鞄を手に取り下駄箱へと向かう。


「ああ……」


下駄箱に向かう途中、ふと視界に入った図書室に足を止める。

働いていた頃、いつか仕事を辞めることが出来たら、何もせずにゆったりと本でも読もうかと思っていた。もちろん、そんな日はついぞ来ることがなかったが、今ならそれも可能だろう。


吸い寄せられるように図書室の前まで歩みを進めると、俺は静かに扉に手をかける。

扉を開けると、すぐに鼻腔を紙独特の匂いがくすぐった。それと同時に、棚一杯に置かれている本の山が視界に広がる。入学式当日という事もあり、室内には人はいない。


俺は数歩歩いて近くの本棚に近づくと、見覚えのあるタイトルの本を一冊手に取る。


「……懐かしいな」


なぞるようにページをめくりながら、俺は過去の記憶を思い出す。

あれは、初めて彼女と話した時の事。彼女は放課後の教室で、このタイトルの本を読んでいた。忘れ物を取りに行っただけだった俺は、彼女に話しかけられて飛び上がる程驚いたものだ。


あの時、話した内容は何だっただろうか。今はもう覚えてやしないけれど、夕日に照らされた彼女の横顔は、今でも鮮麗に覚えている。

俺は本を閉じると、棚に戻して図書室を後にする。


一度目の人生は彼女にもらったも同然の命だ。恩を返す機会なんてついぞ訪れる事はなかったが、この高校生活の間に少しでも返していきたいところだ。


「まあ、本人からすれば、何のことだか分からないだろうが……」


ふっと何とも言えない笑いを上げると、俺は下駄箱から靴を取り出す。

携帯を見てみれば、時間はまだ午前。少し遠回りになるが、朝見た並木道でも通って帰ろう。心を休める時間と、まだ少しこんがらがった頭を整理したい。

ポケットに携帯をしまうと、のんびりと歩き出してすぐ、何かに服を引っ張られる。


「これ、落としましたよ」


懐かしい声だった。記憶の奥底で、ずっと支えられてきた声だった。その声にゆっくりと振り返ってみれば、さっき教室で遠目に見ていた少女の姿がそこには立っていた。


彼女の手に握られていたのは、ポケットに入れていたはずの家の鍵。きっと、携帯を出すときに落としてしまったのだろう。

俺は彼女から落とした鍵を受け取ると、中途半端に開きかけた口を静かに閉じる。


「っ…………」


胸の奥で言葉がつかえていた。様々な感情が複雑に絡み合う。言いたいことも、聞きたいことも、溢れるほどあった。伝えたい思いも、話したいことも沢山ある。

でも、それを話すのは今ではない。今言えることは、ただ一つ。


「……ありがとう」


心の底からこぼれ出た言葉。その短い言葉を聞いて、彼女は艶を帯びた短めの髪を揺らしながら、微かに笑う。


「クラス、同じでしたよね」

「ああ、そうだ」

「私は文乃綾です。あなたは?」

「水垣誠だ」

「水垣君ですね。これからよろしくお願いします」

「……ああ」


自分でも分かるくらいの、そっ気のない返事。それなのに文乃綾という人間は、さも満足そうに微笑む。それだけの事が、俺にとってはどこか満たされたような気分にさせた。


「じゃあ、また明日」

「ああ、また明日」


彼女の痕跡を消していくように、残り僅かな花びらを散らして桜が舞う。微かに香る春の匂いが、彼女の後姿を妙に懐かしいようなもののような気にさせた。


「また、か……」


文乃さんの後姿も見えなくなって、俺は静かに空を見上げる。


「……ああ、そうか」


胸の内に広がる温もりに浸っていると、不意に気が付く。

約十年もの間、時折現れるこの感情は、ずっと尊敬や憧れだと思っていた。けれど、きっとそうではないのだろう。この感情はきっと……。


「俺は、ずっと好きだったんだ……」


ようやく気が付いた自らの想いに、内心思わず苦笑してしまう。

我ながら、本当に鈍い人間だ。一度死んでようやく気が付くなんて、鈍感どころの騒ぎではない。


「やはり、貴方の言う通りだったな……」


きっと、叶う事はないであろう想いだ。でも、それでいい。かつて貰った、数えきれないほどの恩を返せるのなら、それで十分。

それ以上望むのは、きっと傲慢というものだろう。


「いいものだな……」


悪くない気分。それどころか、この空みたいに澄んだ気分だった。

ゆっくりと瞳を閉じ、頬を伝う風を煽る。彼女の後姿が、瞼の裏に焼き付いている。

桜の匂いが、鼻の奥で微かに燻っていた。

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