第五章 星祭りに願う

第44話 とても悲しくて温かな夢を見た

 夕日の差し込む廊下で、小さな花束を握りしめ立っていた。

 どうしてだか分からないけど、今、私はすごく不安でしかたない。横を見上げれば、お兄様の不安な顔がある。そのズボンを摘んで引っ張ると静かに振り返って、私の名を呼んでくれた。


 逆光でよく見えないけど、とても悲しそうな顔をしている。

 眩しさに目を細めて花束を強く握りしめ出てきた言葉は「どうして」──今日は何度も口にしていた気がした。


 ああ、そうだ。この日、お兄様に何度も尋ねたんだった。


「どうして、お母さまといっしょにいてはダメなの?」


 震える声に応えるように、お兄様は私の前にしゃがむ。柔らかな蜂蜜色の髪を揺らして、私を安心させるように翡翠色の瞳を細めて笑ってくれた。


「お花を摘んできたの。お母さまの好きな白いお花よ」

「ミシェル……お母様は、今、休んでいるんだ。とっても疲れているから」

「だから、元気が出るようにお花を……」


 じわじわと浮かぶ涙に視界が歪み、花を握る小さな手が震える。

 遠くで鐘がなり、白い花が足元に散らばった。


 大人たちの言うことは何も分からない。それでも、小さかった私は、別れの時を感じていた。

 耐えられない悲しみが嗚咽となってこぼれ、次第にそれは大きくなる。母を求める悲しみの声が廊下に響き渡ると、お兄様は私の小さな肩をしっかりと抱きしめた。


 ──大丈夫、大丈夫だから。お兄ちゃんが傍にいるから。


 幾度も繰り返される優しい声。

 背中をとんとんと叩く手の温かさの中、瞳を閉ざした私は「お兄様、ありがとう」と呟いた。

 

 ゆっくりと瞼を上げると、そこは薄暗い自分の部屋だった。


 それはとても悲しくて大切なきおく。この世で一番悲しい思い出なのに、思い出すと不思議と胸の奥が温かくなる。

 頬を濡らした涙を拭った私は、薄暗い部屋を見回した。窓の向こうは、うっすら白み始めているけど、夜明けにはまだ少し早いようだ。


 いつの間にベッドへ移動したんだろう。キースが運んでくれたのかもしれない。

 つまり、あんなに泣いて恥ずかしい姿を見せただけじゃなくて、寝顔まで見せたことになる。そう思ったら、とたんに気恥ずかしくなった。


 寝起きにキースがいないのはちょっと寂しい。

 何か変な寝言とか言ってなかっただろうか。昔から寝相が悪いって言われるけど、変な寝姿じゃなかったかしら。──考えれば考えるほど恥ずかしさが込み上げ、寂しさよりも安堵感が込み上げてきた。


 頬が熱くなって息をつくと、とたんに喉の渇きを覚えた。

 いそいそとベッドを抜け出し、枕もとのカンテラ片手に部屋を出る。薄暗い階段を下りていくと、応接室から明かりが漏れているのが目に映った。

 ロン師の起床はいつも早いけど、それにしても今朝は随分と早起きだわ。何かあったのかな。不思議に思いながらその場から離れようとした時だった。


「私は許さないからな!」


 聴き覚えのある怒声が応接室から響いてきた。


「……今の、声」


 聞き間違いかしら。お父様の声に聞こえる。でも、まさかここにいる訳ないし。

 足音を忍ばせて扉に手をかけた。気付かれないように、そっと押し開けた扉の向こうには、ブルーアイにいるはずの父ラウエルの姿があった。


 布張りの椅子に腰かけるお父様は怒りの形相で、向かいの二人を睨みつけている。一人は魔術師のようだけど、もう一人は……キース?


 何で、キースが怒鳴られているのか見当もつかない。

 耳をそばだてていると「落ち着かんか、ラウエル」とロン師の疲れた声が響いた。私からは見えない位置に座っているのね。息を潜めて様子を伺っていると、お父様が声を震わせた。


「しかし……私の可愛い娘を傷物にしようとしたのですよ! どうして黙っていられましょう!」


 怒りに震える拳がテーブルに叩きつけられ、カップがひっくり返った。

 えっ? 傷物って、何を言っているのかしら、お父様は。

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