第42話 「司祭の説教とか、ほんと嫌いだわ」(キース視点)

 立ち止まったキースは暗い夜空に向かって息を吐き、昇る紫煙を見上げる。


 あぁ、そういやあいつは煙草の匂いが嫌いだって言ってたな。──ミシェルの笑顔を思い出ながら、再び深く息を吸う。


 ミシェルが「紅茶の湯気の方がうんといい香りよ」と笑ったのはいつだっただろうか。「食べるなら煙じゃなくて甘いチョコの方が良いじゃない」と言って、オレンジピールにチョコレートをかけたものを口に突っ込んできたこともあった。口の中に広がる煙草の味を噛みしめ、ほんのり苦くて甘い味を思い出したキースは手元に視線を動かした。


 煙草の火が赤々と暗闇に浮かぶ。

 この火を見たのも、いつ以来だろうか。ミシェルといる時が増え、気付けば煙草に火を点けることも減っていたと、キースは気付いた。

 煙草を吸う暇すらないくらい賑やかで、話が絶えなくて。


「……誰かを好きになるとかは、よく分からねぇ。ただ、ミシェルを泣かせたくはねぇだけだ」


 キースはため息混じりに「それだけなんだ」と繰り返し、再び歩き出すとすぐさま路地を折れた。すると丁度、ロンマロリー邸が並ぶ通りに出た。

 無意識に足の運びが遅くなる。自然と、その方角へと視線が向かう。それに気付いたマーヴィンは足を止め、安堵の息をついて笑った。

 

「ロンマロリー邸はすぐそこですよ」

「……そうだな」

「今頃、一人で泣いているかもしれませんね」


 ミシェルの顔を思い浮かべたキースは足を止める。

 くるくると変わる愛らしい表情が曇るのは見たくなかった。


「ミシェルちゃんは、ご令嬢でありながらずいぶんと気丈な子だと思います」

「……俺らと一緒だったからな。ずいぶん無茶もさせてきたし、強くもなるだろう」

「でもそれは、彼女が望んでのこと。泣き言なんていわずに、いつも楽しんでいましたよ」

「そうだな……あいつは、本当に強いと思うよ」

「でも、それは仲間がいたから乗り越えられた苦労だったのではありませんか?」

「それは……」

 

 恋だの愛だの騒ぐよりも先に冒険へ出てしまったミシェルは、危険な目にも何度とあってきた。それ故、一般的な少女よりも強くなれたのかもしれない。辛い時は、いつだって仲間がいて、共に乗り越えてきた。

 しかし、今回はどうだ。──キースは、自分が彼女を守れなかったことを重く受け止め、唇を噛んだ。


「祭りの夜に、彼女は何を願うのでしょうか」

「……何が言いてぇんだ、司祭さんよ?」

「貴方が今するべきことは、憎い相手を痛めつけることではなく、大切な人の涙を拭うことではありませんか?」


 煙草の火種が砕けて地面に落ちる。それを踏みつけたキースは自嘲気味に笑った。


 そんなことは分かっている。ただ、その役目が男である自分でいいのか。今、男の手はミシェルを追い詰めるものでしかないのではないか。考えれば考えるほど、キースの足は重くなるばかりだ。

 掌を見つめるキースに、マーヴィンは静かに「他でもない貴方を待っていますよ」と告げた。


「彼女が貴方を見る瞳の変化くらい、お気付きでしょう? 知らぬ存ぜぬで通すほど、私たちは子どもじゃないのです。もう、逃げるのは止め──」

「司祭の説教とか、ほんと嫌いだわ。神とやらがいつ俺らを助ける? どうやってミシェルを守るって言うんだ」

「あなたが守ればいい。その為の力を、神は授けてくれるでしょう」

「都合のいい話だな。俺は、神なんて信じねぇぞ」


 悪態をついたキースは吸いかけの煙草を落として踏み消し、そのまま歩きだす。目抜き通りではなく、ロンマロリー邸に向けて。

 マーヴィンはその背中に微笑んだ。


「酒はまた今度だ」

「えぇ、そうしましょう」


 マーヴィンが「早く行っておやりなさい」と言う間もなく、キースは地面を蹴った。もう彼に言葉は届かないだろう。だがそれで良い。

 走り去る後ろ姿を見送り、捨てられた煙草を摘まみ上げたマーヴィンはやれやれと呟いた。


「私の前でゴミを捨てるとは」

「後でお説教?」

「おや、アニー。いつからそこに」

「ずっといたわよ。ほら、飲みに行くわよ! 当然、マーヴィンの奢りでしょ?」

「貴女に奢る理由はありませんよ」

「またまた~。失恋を癒すには良い女って相場が決まってるじゃない?」

「私は失恋したつもりもありませんし、良い女がこんな夜更けに一人夜道を歩いているとも思えませんね」

「もう、減らず口ばっかり! いいから、行くわよ!」


 マーヴィンの腕をグイッと引いたアニーは、目抜き通りに向けて歩きだした。


 マーヴィンたちの会話は、前を向いたキースには届いていなかった。

 静かな通りを走り抜け、ロンマロリー邸へと真っすぐに走る。そうして横道に入ると、ミシェルの部屋がある辺りを見上げた。窓は開いているようで、下げられた小さなカンテラの灯が風に揺れていた。


 声どころか物音ひとつ聞こえてこない。

 静かな屋敷を見上げていたキースは、あの日のように塀を蹴り上げて木に飛び移った。そのまま、遠慮なしに木の枝を蹴って部屋へと跳び込む。


 ベッドを背にして蹲る影が僅かに揺れた。

 薄暗い部屋でも、それがミシェルだとキースはすぐに分かった。

 

「ちゃんとベッドで寝ないと、風邪ひくぞ」


 声をかければ、蹲った体がびくりと震える。

 静かに歩み寄り、そのすぐ前にしゃがみ込んだキースは、自分が渡したマントにくるまったままのミシェルへと手を伸ばす。一瞬、触って良いのか躊躇った。

 

「……キース?」

「おう。窓開けっぱなしは不用心だぞ」


 頭をそっと撫でると、マントの間から不安そうな顔が覗く。その目は泣きはらして赤くなっていた。男達に打たれた頬は、司祭の手当でずいぶん腫れが引いていたが、泣き腫らした目と相まって痛々しく見えた。


 ミシェルの頬に指を伸ばし、キースはまた躊躇する。まるで、硝子細工に触れるような気分だった。

 そっと頬に触れれば、細い肩か強張る。


「……触られるの、嫌か?」


 尋ねると、ミシェルは首を横に振った。それを見て、キースは彼女の腕を引き寄せ、小さな体をすっぽりと腕の中に納めた。

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