第32話 恋する気持ちはまるで魔法のよう

 じわりと涙が滲む。

 霞む視界の中、ぎゅっと木箱を握ってマルヴィナ先生を見た。


「キース君のことが、好きなのね」

「……好き?」

「そう。仲間とか友達ってことじゃないわ。恋してるのよ」


 先生の言葉に目を見開らく。

 キースのことが、好き……仲間としてではなく、恋をしている?


 ふわりと立ち上がる紅茶の香りの中に、キースの豊かな表情が次々と浮かんだ。笑顔だけじゃない。怒ったり驚いたり、私よりも年上なのに拗ねたり──今まで見てきたどの表情も、全部が愛おしく感じた。


 これが恋。

 簡単すぎる答えは胸の内にすとんと落ち、あふれでた感情が涙となって頬を濡らした。ぱたり、ぱたりと落ちたそれは、木の箱に小さな染みを作る。


「でも、先生……キースは仲間で……」

「仲間を慕う気持ちが恋になっても、何も変なことはないわよ」


 先生は静かに立ち上がり、私の頭を抱き寄せて髪を撫でてくれた。


「大丈夫、何も間違ったことじゃないわ」

「先生……私……」

「うん?」


 涙で言葉がうまく出ない。

 これから、どうしたら良いんだろう。どんな顔でキースに会えば良いのか分からない。でも、気付いてしまったら隠すことも難しい。


「私……キースが、好き……」

 

 しゃくりあげながら言葉にすると、先生は私の肩を優しく抱きしめてくれた。まるで、幼い頃にお母様がそうしてくれたように、ぎゅっと。


 自室で一人になった私は買ってきた祈りのカンテラを、箱からそっと取り出した。その中央に小さな魔晶石を差し込み、窓辺に吊り下げる。

 部屋の明かりを消すと、カンテラがぽわんっと淡い光を灯した。


 窓を開けると風が吹き込んだ。すぐ側にあるブナの大木がざわざわと葉を揺らせば、カンテラの灯もゆらゆらと揺れる。


 窓辺に置いた椅子に座り、カンテラの淡い灯火を見ていると胸が苦しくなってきた。


「……恋って、苦しいんだ」


 まるで揺れる灯火が自分の心のように思えた。

 巷で流行るロマンス小説をもっと読んでおくべきだったのかな。そう思いながら魔術書に手を伸ばす。だけど、一向に文面が頭に入ってこない。

 

 元より実践型の私は教本が苦手なんだもの。こんな調子じゃ、頭に入らないのも当然だ。でも、それではこの先困ってしまう。

 ぱたんと本を閉じて、再びカンテラを眺める。


「またネヴィンにバカにされちゃう」


 人を小ばかにするようなネヴィンの顔を思い出す。

 あの目は嫌いだ。暗くて冷たくて、何を考えているかさっぱり分からない。

 

 ベッドに飛び込み、ばふんっと音を立てて積み上げられたクッションに顔をうずめる。


『素性も知れないハーフエルフを連れ歩くとは。それとも、下賤の者を着飾って侍らせるご趣味でもあるのでしょうか?』


 憎らしい物言いと癇に障る笑顔を思い出すと、胸の奥がむかむかとした。


「私が嫌いなら、話しかけなきゃいいのに」


 そもそも爵位だ家柄だというなら、アスティン家は伯爵家であり、侯爵家であるマザー家に対して、とやかく言うのは失礼な振る舞いだ。それが子ども達の間でのことだとしても。


 ミシェルの父であるラウエル・マザーは位をかさに威張り散らすような男ではないが、もしも、このことが耳に入ったらどうなるか。

 そのことを想像すると顔が引きつる思いがした。


 もう関わらないで。──しっかり言おう。

 これ以上、大切な人たちを酷く言われるのはたまったものじゃないし、何より、もうキースを酷く言われたくない。


 目蓋を下ろすと、キースの笑顔が浮かんだ。

 ネヴィンの言葉に彼は傷ついたのだろうか。尋ねても「どうでもいいや」と笑い飛ばしそうだな。エール片手に、もしかしたら煙草を吹かしながら──脳裏に浮かぶ笑顔に、ほっと安堵した


 不思議だ。キースの顔を思い浮かべたら、どんなにトゲトゲした気持ちも、不安な気持ちも温かくなっていく。


 まるで魔法だわ。これが恋なのか。

 キースは……恋したことあるのかな。今、どうしてるんだろう……また、お酒飲んで……


 ああ、恋って苦しいだけじゃないんだ。

 

 遠くで、先生が私を呼ぶ声がしたけど、物思いに耽りながらクッションを握りしめたまま、私は意識を手放した。

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