第20話 「もう一度、ミシェルを泣かせてみろ。ただでは済まさない」
近づいてくるネヴィンに足がすくんだ。指が冷えていく。今すぐ逃げ出したい。
葡萄酒を飲み終えたキースはすれ違う給仕へとそれを渡すと、私の指に手を重ねた。
「大丈夫だ」
見上げると、私を安心させるように、キースはその口角を上げた。
彼がいて良かった。素直にそう思え、頷き返す。そんな私たちの横で、パークスがやれやれとため息を吐き出した。
「アリシアの声が大きいんだよ。気づかれる前にこの場を離脱すべきだったと思うね」
「なら、さっさとそう言いなさいな」
眉をつり上げたアリシアは怯む様子もなく、私の前に歩み出る。まるで、近づいてくるネヴィンに立ち向かうようだった。
「ご機嫌よう、ネヴィン」
「お邪魔虫とは、とんだ言われようだな」
「あら、何のことかしら?」
涼しい顔のネヴィンに動じることなく、アリシアは笑う。しかし、彼女には興味がないと言うように、彼はこちらに視線を向けてきた。
「ミシェル嬢は、僕の忠告を全く聞いていなかったようで残念だよ。マザー家のご令嬢ともあろう方が、素性も知れないハーフエルフを連れ歩くとは。それとも、下賤の者を着飾らせて侍らせるご趣味でもあるのでしょうか?」
侮蔑のこもった物言いと笑顔に背筋が震えた。
どうしてそこまで言われないといけないの。キースがハーフエルフだから? 貴族じゃないから?
周囲の学生から、ひそひそと声が上がる。
とんだ晒し者だわ。こんなことして、何が楽しいのよ。
「ちょっと、ネヴィン! いい加減にしなさい」
「アリシア、落ち着くんだ」
私よりも先に声を上げたのはアリシアだった。それを止めようと、パークスが彼女の手を引いたけど、あっさりとはねのけられる。
基本的に冷静なアリシアだけど、ここ数か月、ネヴィンのことに関してはだいぶ怒り心頭だったのよね。
後で聞いたのだけど、パークスもそのことを知っていたから、彼女がカッとなった時に止めようと思って、同伴としてきたらしい。
アリシアって、火がついたら止められないところがあるから──もしかしたら、ネヴィンもそれを分かっていて、酷いことを言い出すんじゃないかしら。
色々な不安が押し寄せた。
ネヴィンの侮蔑の眼差しがアリシアにも向けられ、さらに、周囲から向けられる好奇の目が増えたように感じた。
アリシアを止めないと。そう思ってに手を伸ばした時、私の手を離したキースが、彼女とネヴィンの間に割って入った。
「アリシア嬢、美しいお顔が台無しですよ」
綺麗に微笑み、そしてネヴィンに向き直る。
「挨拶が遅くなり申し訳ない。キース・クインシーです」
「……クインシー、だと?」
ネヴィンは顔をさっと青くして、聞き返した。その声が、信じられないというように震えている。
震えていたのは、ネヴィンだけじゃない。私も困惑に両手を握りしめて息を飲んだ。
よりによって、クインシーだなんて……
私とネヴィンが顔色を変えて黙りこみ、会話が途切れた。
「まさか……そんなはずは……」
ネヴィンの顔が屈辱だと言わんばかりに歪む。そうしてキースを睨みつけるけど、彼は微塵も気に留めていない。
「せっかくの舞踏会です。そう眉間にしわを寄せず、楽しまれてはいかがですか? あまりこの場に水を差すような言動は、アスティン卿もお喜びにならないでしょう」
穏やかに笑いかけるキースに反し、いっそう険しい表情になったネヴィンは唸るように「失礼する」と言い捨て、キースの横を通り過ぎようとした。
すれ違いざまにキースの手がネヴィンの肩を掴む。そして、耳元に顔を近づけ──
「もう一度、ミシェルを泣かせてみろ。ただでは済まさない」
低い声で告げた。
振り返ったネヴィンは、何か言い換えそうとしたのかもしれない。だけど、開きかけた口を一度引き結び、再び「失礼する」と言って去っていった。
何が起きたのか、私も理解できず、キースを見上げた。
その綺麗な緑の瞳は、人混みに消えたネヴィンを睨んだままだった。
「キース?」
彼の名を呼んだとき、まるで場の雰囲気を切り替えるように軽快な音楽が奏でられた。
様子を窺っていた周囲の学生に談笑が戻り、音楽に誘われた学生たちは一組、二組と、次々に中央へと歩みでた。そうして、音楽に合わせてステップを刻み始める。
キースが私に手を差し伸べた。
「せっかくだ。一曲、お相手頂けるかな?」
彼の誘いを断る理由もなく、手を引かれて広間の中央に誘い出される。
困惑していると、アリシアもパークスと一緒に歩みでてきた。
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