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稲谷結

その1 俺はもう少し従順でツンとすました人間になろうと考えた

 

 彼は唾を飲む。相手を落ち着かせるための微笑を浮かべる。


「あの、泊めてくださり助かりました。親切な方に出会えて良かったです……」


 八生は目の前で呻いている男を見遣りながら、魔導書を抱えて震えている。いきなり詰め寄られ驚いた拍子に殴ってしまったものの、彼は殴った相手への心配ではなく、愛用する魔導書が汚れたことに切なくなった。


 実際には人を強打した程度で本が汚れるわけもないのだが、これは気持ちの問題だ。こんなことを何回も繰り返すうちに、自分に近寄ってくる人間全てに「ダサくてキショくてバカだな……」と思うようになってしまったのは八生にとってかなりの損失だった。


 ここに来る前は負の感情を表出することは少なかった。八生だって聖人なんかではない。むしろ人間的欠陥を抱えているのではないかと自分に疑いを持つこともある。しかし体に触られたくらいで暴力に訴えることはなかった。


 こういう時に咄嗟に謝れず、感謝の言葉が出てしまうあたりにも、他人とのズレを感じる。男はしばらくはのびていたが、やがてこめかみを押さえながら立ち上がった。


「おい、ポンコツ魔導士が……泊めてやるっつったのにちょっと手出したらブン殴るとかやる気あんのか? お前がこういうことする奴だって言いふらしたって良いんだけどな」

「それは……すみません。俺も、わざとじゃなくて」

「まぁ、魔導士の筋力のステータスなんざたかが知れてるしな。サービスしてくれりゃ許すよ。これからもっとすごいことするんだから、仲良くしようぜ?」

「大したことはできませんけど、好きにしてもらえれば」

「謙虚な奴は嫌いじゃないぜ。それに、多少じゃじゃ馬な方がいたぶった時に楽しいしな」


 男は脂ぎった顔をテカらせながら笑う。発情期の雄特有の、性欲から湧く汗と脂だった。八生だってお仕事でやっているのだ。男もそれを分かっている。


 余計なやりとりで時間を奪われるのは避けたいのだろう。男は八生の腕をむんずと掴むと寝室に案内する。事を急いでいるかのようだ。八生もやりたくてやっているわけじゃないのだ。今日明日の生活を守らないといけないから。


 そのくせAランク以下の魔導士はいらないと人の身を顧みもしない人達。選り好みばかりするのに順調にモンスターを討伐している人達。彼らが手を差し伸べてくれないからやっている。本当は嫌なのだけれども、やらなくちゃいけないから。


 そう思うとなんだかお腹の奥がじわじわと濡れてきて、自分が変わり果ててしまったことを実感した。俺はこんな風に虐げられて悦ぶ人間じゃなかった。もっと毎日が楽しくて、愛する人達がいて、もっと有意義な仕事があって……。


 少し考え込んだ隙に耳を舐られる。舌の感触が気持ち悪かった。ブヨブヨした塊が体に押し付けられる。抵抗することも拒むことも、やってもいいがやりすぎてもいけない。八生は初めに本で人を殴った以上、あとは大人しく男に従う他ない。


「じゃ、行こうか……浮かない顔だが、神様にでも祈ってんのか」

「考え事をしてて」

「別の男のことでも考えてたか」

「それはないですよ」


 知り合い以下の会話。

 だいたい八生がこの世界に来たのは、ある世界で被害が大量発生していた「異世界転移」という現象に巻き込まれたからだった。夢みたいな話だが、夢ではなかった。


 八生が元いた世界から大勢の人が流入してきている。元々この世界に住んでいた住民は移住区を奪われ、生活範囲の縮小を余儀なくされ、不平不満が積もりに積もっていたらしい。


 それでも大概転移してくる人間にはギフトが与えられており、冒険者としての才覚もあって、モンスター討伐に貢献している。しかしそんな中にもあぶれ者がいる。異世界人が目を付けたのは彼らだった。


 現代人がもっとも適性を示すことの多いジョブ、魔導士。八生は例外に漏れず、その一人だ。


 もう冒険者過多なこの時代において、レベル一の魔導士を拾ってくれる者などいない。かといって一人でレベルを上げに行くには、外のモンスターは危険すぎる。


 幸い異世界人に比べ現代人は見目が良く、性行為への順応も早い。なのでどこのパーティーにも所属できなかった魔導士は一晩限りの慰み者にされるのが鉄則なのだった。


 死ぬ気で外へ出てレベルを上げに行くか、安全な内地で落伍者として生きるか。前者を選べるほどの勇者ではなかった。

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今はまだ品出しの最中 稲谷結 @Yoyosokono

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