第漆章 -1- 晴れ着と洋菓子
しばらくして
私が街へ出歩く間、
「またみんなで賑やかにご飯を食べたいねぇ。子供たちも元気かな」
そう天井に視線を移しながら言った。いつしか千鳥との日常が私の日常になってしまっていることが心地よく、どこか安心している自分に気がついた。
狗鷲の死が心から遠のいていることに腹立ちもまた覚える。誰かの心に根強く思いが残っていても、社会は人の死をいつまでも引きずらない。人と時間の中に埋もれて消えていく。いずれは多くの人を失った大戦のことも忘れ去られてしまうのだろうなと私が考えていると、人の往来は途絶えた。
街の外れまで気がつくとたどり着いている。今日もまた空振りかと私は
せめてヤハズと姫がもとどおり出歩けるようになるまで、
ひょっとしたら往来を歩く最中に後ろから刺されるかもしれない。日中の往来であるならばきっと騒ぎになるだろう。そしていつかはヤハズの耳にも入る。姫とヤハズならきっとなんとかしてくれるだろう。まだヤハズの狙いは漠然としかわからないが、それでもヤハズを信頼しているのが不思議だった。
麻子は私とヤハズが似ていると言った。子供には弱いというところが。ヤハズは他の子供を姫ほどではないが、雑に扱ったりはしなかった。不機嫌ではあったけど。
それに約束が果たされないと、姫も悲しむだろう。そうすればきっとヤハズは出刃包丁の男を許さない。姫への妄執だけは信頼できる。例え私が刺されて朽ち果てようとも。
まだ私は自分が犠牲になればよいと思っていた。出刃包丁の男が私を狙っている限り、子供に被害は及ばぬと、黄昏時でもないから危険はないと。なんの確証もないのに、確信していた。
それが愚かで楽観的な考えだと痛感したのは一月も経たないとある日のことだった。
季節は秋へと向かいつつ、
私とはいえば一向に出刃包丁の男について手がかりすら得ることができなかった。まるで消えてしまったかのように痕跡はなく、街に紛れているはずなのに男の姿はどこにもない。ただの
私が居間で寝そべっていると、ガラガラと扉は開き、千鳥が姿を現した。仕事の終わりなのか、初めて出会った時のように
「呑気なもんだねぇ。世間の人はこんなに頑張っているのにねぇ」
半分冗談に嫌味を言って、千鳥は土間から居間に上がる段差に腰をかける。のそりと起き上がりあぐらのままに、頭を掻く。
「仕方がねぇだろう。これでもちゃんと働いている。ただ結果がともなわないだけだ」
「それならよいけどね。でも最近は静かだねぇ。子供たちも、とんと姿を現さない」
「静かでいいよ。溜まり場になっていたなからな。それに街で子供が消えたなんて噂も聞かない。平和そのものさ」
「そんなもんかねぇ」
千鳥は疲れたようすで首を曲げ、肩に手を当て揉んでいた。取るに足らない夜と昼の間で、私はどうしようもなく嫌な風を感じていた。風の便りか虫の知らせか。いずれにしても不快であった。開かれたままの扉には西日に照らされ長い影が伸びている。
影よりもずっと濃い、黒が横切り赤色の筋が見えた。白く彩られた布がふわりと揺れる。すぐに白くまっすぐと伸ばされた指先が見え、黒く小さな帽子の乗った奇妙なまでに整った鼻先が見えた。
「姫ちゃん!」
千鳥は声を高く立ち上がり、扉へと駆けよる。
「まったく暇そうだな。少しは出刃包丁の男を探してはどうだ?」
姫に抱きつき頬を寄せる千鳥の向こうで、ヤハズは私をじっと見て言った。
「お前こそ体は縫い合わせられたのか? 時間がかかったな」
誰のせいだと思っている。ヤハズは黒カバンを掲げて私に見せる。
「それはなんだ?」
「姫から菓子を作るように言われたからな。それで子供はどこにいる?」
「いつも来ているわけじゃねぇよ。連絡くらいよこせ」
そんなものか。とヤハズは眉を片方だけ上げ、千鳥の両手から離れて、姫は両足を広げ腕に力を入れる。
「なんでおらんのだ? 嫌がるヤハズに作らせたのじゃぞ!?」
やはり嫌がっていたのかと、私は目を細める。姫は首だけ振り向きヤハズを見上げた。
「まぁ。その割には小気味よく鼻歌なんぞ奏でておったがな」
ヤハズは照れくさそうに掲げたカバンを下ろして視線をそらした。
「姫にも食べていただけると思いましたので。それに姫に使える男がどれほど素晴らしいかを、子供たちに自慢できるいい機会ですので」
「本当は子供に好かれたことなんてないから、嬉しいのだろう?」
決してそうではありません。とヤハズは表情を変えないまま行って、どうだかな? と姫はクスクスと口元に手を当て笑った。千鳥はもったいないねぇ。と腕を組む。
「麻子ちゃんが楽しみにしてたって、
「焼き菓子とはいえそんなに持たない。それに私は待つことが最も嫌いだ。麻子に渡せば他の子供にも行き渡るのではないか? 麻子にはまた姫を褒めてもらわなければならない」
ヤハズが私を見て、姫と千鳥も同時に私を見た。
「もうそろそろ夜になるぞ? 明日ではダメか?」
「言っただろう八代。私は待つことが最も嫌いなのだと。それに夜は私と姫の時間だ。人の都合など知らない」
千鳥が首をかしげ、そうじゃ! と姫は両手を握って胸に当て、私を見上げる。
「急ごう八代。まだ眠るには早いじゃろう?」
確かにそうだと私は立ち上がる。麻子にも最後に会ってから一か月ほど姿を見ていない。赤い晴れ着と交換した米も尽きるだろうに。それにどうしようもなく嫌な予感がする。
「仕方がねぇな。その菓子は俺にも食わせてもらえるんだろうな」
「お前にはもったいない」
そうかい。と私は今から立ち上がり一足早く姫たちは外に出たのを確認する。そして畳の下に隠した拳銃と白蛇のキセルを腰に差した。紫の羽織でふたつを隠す。
そしてみんなに合わせて外に出る。日が落ちるのは早い。夏が終わったのにもかかわらず風はじっとり緩い。千鳥は姫の手を取って、隣を歩くヤハズの足取りも軽い。
呑気なのは誰の話だよと、私は三人の後を追った。
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