第漆章 -2- 晴れ着と洋菓子
麻子の家は通りから外れた場所にある。政府が作ったトタンの壁で作られた急ごしらえの家に祖母とふたりで住んでいた。戦で家を焼かれた人の避難所でもある。
ガタガタと風に揺れる壁を横切り戸の前に立つ。姫はソワソワと手を揉んで隣のヤハズを見上げた。
「なぁなぁヤハズ。まるでおもちゃのような家だなぁ。人もここに住めるのか?」
「住むことはできるでしょうが。私は住みたくありませんね」
「
姫は私を振り返り、千鳥と並んでヤハズと姫の間に立った。
「屋根があるだけマシな生活だ。まずは俺が挨拶するからお前たちは後ろから付いてきてくれ。麻子のばあさんが驚いてひっくり返っちまう」
そうだなぁ。と姫は腰の後ろに手を沿わせた。どうにも落ち着かないらしい。
しかし姫の落ち着かなさは私とどうやら違う種類のようだ。ねぇ。と千鳥が私を横目で見る。私もあぁ。と答えた。千鳥もどうやら不安に感じているらしい。
「ねぇ。翁さん。静かすぎない? 麻子ちゃんはおとなしい子だけど、静まり返っている」
「そうだな。眠っているとは思えない。嫌な予感がする」
私が言うと千鳥はこくりとうなずいた。私は何度かノックをして、失礼するよと戸を開く。戸はあっけないほどに開いた。
汚れた畳間には電気が通っているのか、吊るされた伝統がチカチカと点滅している。中央には布団が引かれており、白い
立ち上がることもせずに、垂れ下がった頬には深いシワが刻まれていた。薄暗い部屋の中で影が目を包んでいる。長い白髪はひとつに結ばれていて、正座をしたまま老婆は頭を下げる。
私にははっきり見えた。
枕元に置かれた赤い晴れ着はいつか麻子が持ってきた物だ。狗鷲に売ったはずなのになぜか枕元に置いてある。そして汚れて薄い掛け布団に包まれているのは、麻子だった。
頬はこけて目はくぼんでいる。乾いた唇の色は薄く、一目見ただけでは快活に笑みを浮かべる麻子とはかけ離れている。亡骸にも見えた。
千鳥は驚き口元に手を当てる。私は
しかしあまりにやせ細っている。
「古道具屋の翁さんかい・・・麻子は帰ってきてくれたよ」
ボソボソと掠れた声が聞こえ、私は布団の向こうに座る老婆を見上げる。麻子の祖母もまたひどく痩せている。声にも力がない。
「こうなる前に言ってくれりゃ、飯くらいは調達できたのに。どうしたんだ?」
できるだけ平静に言葉を紡ごうとしても、横目に変わり果てた麻子の姿が目に移る。背中には冷たい汗が流れていた。自分で聞こえる以上に怒鳴りつけるような声量に、老婆は怯えヒッと両手を曲げて胸を抱く。
「すまん・・・飯がなかったのか? それとも病か?」
老婆は首を横に振り、呼吸を整えると視線を麻子に落として口を開く。
「麻子はな。帰ってこなかったんだ。近所の人は
気づけば隣にヤハズがいた。音もなく家に上がり麻子の顔を横から覗き込み、まぶたを開いた後に布団を剥いで視線を上下させる。ボロボロの小さな着流しに包まれた麻子の腹はひどく
「ひどく衰弱しているが生きている。医者には見せていないのか?」
ヤハズの問いに老婆は首を横に振る。
「そんな金はねぇさ。思えばこの子にも無理をさせた。辛かっただろうねぇ。父を戦争に取られて、母も病で死んじまった。幼い身でこんなばあさんを支えてくれた。近頃は楽しそうだったのにねぇ。家でもよく笑っていたよ」
「まだ麻子は死んでいない!」
ヤハズは声を張り上げて、誰もが体を固めた。張り上げた声は部屋に反響して消える。電灯はチカチカと点滅し、ヤハズの横顔を私の瞳に映った。唇が震えただえさえ白い肌が青白く浮かぶ。まるで幽鬼のような横顔は五感を失ったはずなのになと私は呆れた。
ヤハズは怒っている。それは私もまたそうだ。握られ畳に落とされた腕に力が入る。怒りは油断し愚かな私に対してだ。
私が標的にされていれば子供はさらわれない。バカな考えだった。ふつふつと胸の奥が温度を持つ。温度はただただ上がり続け、頭を焦がした。
狗鷲は言った。神隠しにあった子は家に帰ると。命を失ったままに家の外に置かれていると。目を丸めた老婆は身を丸めて肩を落とす。
「なぁ。ばあさんよ。教えてくれ。麻子に何があった?」
「翁さんよ。わかっているだろう? 麻子は人さらいにあったのさ。神隠しさね。先月から麻子は帰ってこずに、ずっと家で待っていた。それが昨晩、突然帰ってきたのさ。その赤い晴れ着を着てな。家の外でガタリと音がして扉が揺れた。弱った足で外に出るとな、麻子がその晴れ着を着て倒れていたんだよ。やせ細って息も絶え絶えにな」
枕元の晴れ着は綺麗にたたまれている。寸法は麻子よりもずっと大きい。家の前で息も絶え絶えに倒れている麻子の姿が目に浮かんだ。老婆は続ける。
「生きて帰ってくれただけでよかったよ。神隠しにあった子は家に帰される時には死んでいると噂だったからね。死に目に会えないのはもうごめんだ。麻子の父も、病院に運ばれ人知れず死んだ母も。死に目に会えるだけでもういいんだ」
老婆は言い終わると事切れたかのように黙った。誰もが何も言葉を出せずにいた。
私の胸は高々と燃えさかる炎に包まれ、背筋は冷たい後悔の汗で濡れている。目を伏せ静かに上下する麻子の胸を見た時、胸元が強くつかまれて引き寄せられた先には、ヤハズの顔があった。
いつもよりずっと冷たく濡れた刃の切っ先とよく似ている。
「なぜ麻子を放っておいた! お前がしっかりしていれば麻子はこんなざまにならなかった!」
何も言い返せなかった。すべては私のせいである。ギリギリと締めつけられる首元が、せめてもの救いだった。姫が音もなく私の隣に立ち麻子を覗く。
「まぁ待てヤハズ。お前もまだ麻子が死ぬと思っているのか?」
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