第伍章 -4- マッチ箱と燃え盛る日常
「姫はどうした!? なぜ離れている!?」
「姫は元気だよ。それにヤハズはどうなんだい?」
「取るに足らない。日常だ」
そうかいそうかい。と私は白蛇のキセルを口元に当てる。吸い口から紫煙のくすんだ香りが
「俺が手伝ってやろう。取るに足らなくとも、時間がかかりすぎているからな。それに俺も
「余計な御世話だ! 姫をお守りするのは私ひとりで十分だ!」
ヤハズは影で塗られた地を蹴り、背広の男へ駆けていく。同時に振り下ろされた男の火剣が地面を左右に割った。
仕方がないねぇと。私は紫煙を自分自身に吹きかける。
身を包む衣は風のように浮かび、地面との境である
私は宙を蹴りながらヤハズの後を追う。ヤハズは左右にわかれた炎の中心を駆け、右手を振り上げた。銀の糸は鞭のように地を這い、男の足元へと向かう。そして蛇のように男の足首をひねり上げると、糸を強くヤハズは引いた。
足を引かれて身を崩しながら男は、宙を跳ねながら自身のもとへ向かう私を見る。
右手の火剣を振るうと、固まったままに留まる火剣はバラバラとほどけて、
まずひとつ目は私の頭へとまっすぐと進む。私は首をひねって火の鞭を避ける。頬が避け右足で宙を蹴る。側方に反転しながら続く鞭を避け、姿勢を宙で整える。
最後に残ったふたつの火の鞭へ羽織を振るって上へと巻き上げた。羽織は風をつかむ。まるで鞍馬の天狗だな。と羽織が巻き起こした風に巻かれる火の鞭を見た。
いかに付喪之人の力でも自然の
私が火を巻き上げる間にもヤハズの伸ばした銀の糸は背広の男へと巻きついていく。巻きつき締め上げ、男の左手を
笑みを浮かべたままヤハズは男へ向かって駆ける。止めを刺そうと右手を引き、首をはねようと力を込めた。
人の体を得て不思議な力を得た代償は、人の形に収まることである。首をはねられれば、
ただの物であれば長生きできただろうに。背広の男へとヤハズは風を後方に残して走り寄る。私はヤハズが背広の男へ駆け寄るのを見ていた。そして背広の男はみじろぎしながら自身の右手へと視線を向ける。炎は右手から腕へと燃え広がっていく。
背広の男はヤハズを見た。ヤハズを見て初めて
ヤハズは走り方向を変えて、横へと飛び退き爆炎をかろうじて避ける。しかし右の指先から伸びていた銀の糸は絶たれた。大気の切れ目のように揺らめいて糸が宙をさまよっている。
次にヤハズは私を見た。私の出番ということか。
仕方がないと私は宙を蹴る。爆炎に包まれ轟々と燃え尽きようとしている男へ。
「なぜ自ら燃え尽きようとするのかい。それがマッチの使命かな」
背広の男は私の声が聞こえていないのだろう。目を虚に
「ならば因果を
私は羽織を脱ぎ、両手で裾をつかむ。裾をつかんで回転しながら巨大な扇さながらに、背広の男へ振る。巻き起こされた風は爆炎を包み、炎はさらに燃え上がる。
扇となった羽織を片手で握った袖を支点に回転させた。くるくると回転するに従い目の前に空気の塊ができる。
「さてさて草鞋よ。宙をつかむのも飽きただろう? ならば
私の草鞋は煙に包まれ脈動する。続けて私は目の前で渦巻く風の塊を蹴った。草鞋で鞠のように蹴られた風の砲弾は背広の男が巻き起こす炎の中心で爆ぜた。
「炎も燃やす相手がなければ、ただただ
炎は爆ぜて、風に巻かれながら火の粉が舞った。宙空に浮いた赤色の波紋は端に進むにつれて消えていく。
ヤハズが背広の男へ駆け、私もまた風に乗って宙を蹴る。
ヤハズが首をはねてしまう前に、因果を知らなければならない。ヤハズを説得している暇はもうない。ヤハズを煙に包んだことも知られてしまうだろうが、いまさら問題にはならないだろう。
ヤハズは千切れたまま背広の男に巻きつく銀の糸と人差し指へと手を伸ばし、勢いをつけて引こうとした。だが糸を引く一瞬前に、私は背広の男の眼前へとたどり着き、そして口に含んだ紫煙を吐きかける。
男を包む紫煙の量に比例して、私の視界は影よりも暗い黒へと包まれる。視界が暗転する
何もかも説明したら面白くないだろう? 視界が暗転していくわずかな間に、私は笑みをヤハズへ向けた。
暗転の後、あたりには
今、私はマッチ箱の付喪之人に成り果てた、男の記憶の中にいる。
私の視界は
背広は汚れているが仕立ては上等である。私はマッチ箱の男が残した想いの上澄みを歩いている。うつむき歩く人の往来で、何度も人と肩をぶつけながら歩いていた。
そしてひどい空腹感も感じる。とぼとぼと男は路地へと入り、トタンの壁に背を預けて腰を下ろした。積まれたゴミの腐臭が身を包んでいる。
男はマッチを器用に片手で擦ると、ほのかに灯る火を顔に近づけた。頬を照らす温もりを感じながら、男は右手に持った紙タバコの箱を握りつぶす。
立ち止まってしまうと身を刺すような寒さがひどく堪えた。関節は軋み、やせ細った手足は動くことを諦めている。
男の脳裏にはぼんやりと、思い出が浮かび上がった。広い屋敷には襖で遮られておくまで部屋が続いている。使用人たちは屋敷の中をせわしなく駆け回り、中央には紋付羽織を着た恰幅のいい男がいた。背広の男もまた屋敷を悠然と歩き、働く使用人たちを眺める。
自分が人の上に立つことに、得たわけでもない与えられた力に酔っていた。子供の頃から願えば何でも叶えられた。何不自由なく、空腹すらも感じたことはない。
病床となった家で男はいつも縁側の向こうに広がる空を見上げていた。いつか自由の身になりたいと、自分に与えられた財を尻目に考えていた。
男の願いは不運な形で叶えられる。肺病のために戦からは逃れられても使用人の数は減る。そして戦後の財閥解体と燃えた街並みで商いも途絶え男の家は没落する。
父は責を感じて首をつり、ひとり残された男は街を放浪した。行き場もなく路上で眠り、
末路で男は命を失おうとしている。マッチ箱を眺めながら過去へとすがる虚な瞳をしていた。かわいそうだとは思う。戦後の世では男のようなかつての財閥で身を飾った人は多くいるだろう。
男の心にあるのは諦めと、街行く人への憎しみだった。
なぜ自分だけが、
そう考えていた。
それが背広の男の因果なのか? 私の疑問はまだ晴れない。
男の想いはわかったが、マッチ箱はまだ意思を持っていない。男の憎しみはマッチ箱に憎しみを抱かせるにはまだ足りない。付喪となるには足りないのだ。
「あらあらかわいそう。大丈夫かしら?」
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