第伍章 -2- マッチ箱と燃え盛る日常
「これはこれは。よからぬ
「姫。私には感覚がありません。・・・詳しく教えてください」
それは私も感じていた。生々しく鼻をつく鉄の混じった匂い。姫の笑い声が高さを増して路地へと響いた。
「血の匂いじゃよ。それも扉から流れ出してしまうほどの血。八代よ。急いだ方がよさそうだな」
わかっていると。と駆け出した私にヤハズが続き扉を開く。
開かれたままの扉から、部屋の中を照らすには弱々しい光が流れる。
光は囲炉裏の前で倒れる狗鷲と、背中に突き刺さる包丁の根元を照らした。ぬらりと鈍色に反射した包丁と畳を染める赤い血、身動きひとつしない狗鷲が絶命しているのは改めなくても明らかだった。思わず
「そのままにしておけ。
あぁ。と私の肩から力が抜けた。駆け寄り抱きしめたからといって、狗鷲が生き返るわけでもない。血と共に流れ出した命。
命と一緒に魂も流れ出してしまうのだろうか。絶命した狗鷲は
かつては意志を宿していた付喪と同じだ。ただの物である。
「これはこれは。口を封じられたようだな。
姫は笑みを
「どうする? 一度戻るか? 誰かが駆けつけてくる前に」
ヤハズの言葉にようやく私の思考が回り始める。
振り向きヤハズと姫を見る。そして動転して今まで気がつかなかったことに
扉の横にある戸棚の隅に、米の積まれた麻袋と色を同じにした背広があった。うずくまり膝を抱えて身を隠しているようだった。
馬鹿だな俺は。
「おやおや。気がつかれてしまったなぁ。
「姫。なぜ教えてくれなかったのですか!?」
珍しくヤハズが驚き細い眉は弧を描いた。姫はじぃっと私を見ている。赤黒い瞳は私をとらえて離さない。
「なぜ男が潜んでいるのを教えなかった?」
「聞かれなかったからじゃよ。気がつかぬ八代が悪い。追うのか?」
当たり前だと私は男が走り去った路地へと向かう。姫はヤハズの背に飛び乗り、遅れてヤハズは私に続く。
路地から出ると人の往来は割れ、走り去る背広姿の男を誰もが見えていた。道の中央で走る男を私と私の影に溶け込み、人には見えないヤハズが追う。ヤハズの背には姫が乗り、右手を伸ばして男を指差した。
「さぁ行け! 敵を追い詰めるのじゃ!」
なぜこんなにも楽しそうに。私はヤハズと共に人混みをかきわけ男を追った。男は何度も私たちの方を振り返り、そしていよいよ
手のひらに納まるほどの小箱を右手に持ち直し、器用に小箱の中から赤く塗られたマッチを取り出す。人差し指を立て器用に小箱の側方へ擦りつけた。
眉をひそめる私の横でヤハズがちらりと私を視線を送る。
「
「焦るなよ。この後に及んでマッチだけどうにもならん」
「バカめ。これだから人はあてにならないんだ」
まさかと立ち止まり男と対峙する。人混みの合間から見える男は右手に持った小さなマッチを頭上に
「あいつは
「私に考えが及ぶか。マッチとはそのような物だろう。姫・・・人が焼かれるのは別に構いませんが、面倒に巻き込まれたくはございません」
うむ。と姫はヤハズの背中から飛び降り、あたりを見渡す。
「影が足りぬが仕方がない。時間はわずかじゃ。よいか? のんびりしておると影に呑まれてしまうからな」
姫はしゃがみこみ、地面に手を当てフフフと笑う。街ゆく人は
火球は小さな太陽のように人を照らして影を伸ばす。伸ばされた影は地面に置かれた姫の手に伸び、足元へと広がっていく。
「よいか? 言っておくが長くは持たぬぞ? ・・・・
姫はぽつりと呟くと、手元に集まった底の見えない黒い影が
まばたきほどのわずかな時間で、あたりは夜に呑まれてしまった。いや、影に呑まれてしまい輪郭を残したまま家々や往来は黒く染まる。そして人の姿は消えていた。
影の中には私とヤハズ、姫とマッチ箱の男しかいない。男は明らかに
耳元で整えられた髪は刈り上げられており、黒く小さな瞳はどこか動物を思わせる。
茶色の背広は端々が汚れてほつれており、見た目よりもずっとみすぼらしい。みすぼらしいが狗鷲の返り血で濡れた背広が
実際に狂気に身を
「おいおい。これも姫ちゃんの影かい?」
私が尋ねると、そうじゃ! と身を起こした姫が腰に手を当てる。
「影花は影で空間を包む。そして飲めるのは妾が選んだ
ありがとうございます。とヤハズは一歩前に踏み出して白手袋を整える。
「しかし影花は多くの影を使う。その間、姫はイバラを出せないのだ。八代。あいつが狗鷲とやらを殺したことは明らかだ。となるとあいつが出刃包丁の男につながっている。そう考えるのが当然だな?」
「あぁそうだろう。ただし事実は煙に巻かねばわからないがな」
「ならば姫を守っていろ。私がとらえて差し出そう」
おい! 勝手な・・・と言い終わる前にヤハズはマッチ箱の男へと駆け出した。
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