第弐章 -3- まな板と翁の商い

 子供たちの喧騒が部屋から遠のき、ようやく私は一息ついた。普段なら寝起きの霞に包まれた頭の中でぼんやりと過ごしているのにと、再びキセルの火口にタバコ草を詰める。扉は開かれており風のない照りつける日差しで、外が明るくぼやけて見えた。


「いい子たちだねぇ。それにたくさん食べてくれた」


 後片付けをしながら千鳥は言った。かちゃかちゃと食器が水を浴び、上がる気温で背中に汗をじっとりとかく。

 私は涼しげに洗われる食器が羨ましく感じた。


「俺の米なのにな。少しくらいは遠慮を覚えて欲しいもんだ」


「子供はそれくらいがいいよ。何も悩まずにただただ日々を楽しんでいればいいの。それでさ。麻子ちゃんから受け取った晴れ着はどうするんだい?」


 畳まれて部屋の隅に置かれた晴れ着に私は目を向ける。汚れのひとつもなく晴れ着だからか、生活感がない。麻子の母はほとんど袖を通すことがなかったのだろう。


「闇市に持っていくのさ。老人や子供じゃ足元を見られるのがオチだ。それに無事に目当ての物と交換できるとも限らねえ」


「だから代わりに物々交換てわけ? まるで正義の味方だねぇ」


「仲介料はもらってるさ。無償でやってるわけでもない。俺だって生きるのに必死だからな」


 照れてるの? と千鳥は私に尋ねて、私は答えずそっぽを向いた。


「だから慕われてるんだねぇ。これが古道具屋の翁さんの商いってわけだ!」


「もちろんそれだけじゃねぇよ。古道具だって売っている。娯楽に費やす余力がなくても、娯楽を求めるのが人ってもんだ。中には言い値で買い取ってくれる旦那もいる。まぁ金持ちにはならねえだろうが」

 

 軒先に並ぶのは想いを祓われた付喪であった物たちである。想いを宿し人になろうとしてなれなかった哀れな物たち。せめて新しい主人のもとで物としての想いを全うして欲しかった。人の欲に染まらずに、余計なことなど想うことなく。生きて欲しかった。


「そんじゃ起きたついでにちょっと出てくる。用事が済んだら俺は寝る」


 居間から立ち上がり、晴れ着を私は風呂敷に包む。土間に降りると、エプロンで手を拭きながらちょっと待って! と千鳥が私に駆け寄った。


「私も連れて行ってよ。翁の商いに興味が湧いた。何か手伝えることもあるかもしれないし」


「もう一宿一飯いっしゅくいっぱんの恩は返しただろう? 」


「ふふん。袖触れ合うのも何かの縁ってね。別に減るもんじゃないでしょう?」


 へへへ。と千鳥は少女のように意図を感じさせぬように破顔した。

 

面倒くせえなぁと思いつつ昨夜の一件もまた気にかかっていた。なぜこの女は付喪が人になりかわった、付喪之人に襲われていたのか。用いた技からおそらく手に持つ包丁が主人の体を奪ったのだろう。


 女を隣に置いておけば、再び出会う因果になり得るかもしれない。それに知らぬ場所で女が命を落としても目覚めが悪い。袖触れ合う縁というのも厄介だと、私は息を吐く。


「まぁいいだろう。それに楽しいもんじゃねぇからな」


「あらやだいいじゃない。私は田舎から出てきたばっかりだからさ。街を案内してよ」


「どうぞご勝手に」


 やった。と千鳥は両手を合わせて少しだけ跳ねる。私は包んだ晴れ着を腕に持ち外に出た。


往来にはいつしか人が溢れており、互いに笑みを交わしながら歩いている。戦後の混乱も何年か経つと悲壮ひそうな表情を浮かべていた人は、いつしか目線を上げて歩き出していた。


戦災の復興と復興に伴う事業の拡大。財閥は解体され雇用が増えつつあるものの、貧しいのは変わりないが、人はそれぞれの生活を取り戻しつつあった。


 ふと街のはずれで、軍装へ身を包んだ男がギターを奏でている。あるはずの右足はなく、目の前には銀色をした小箱が置かれていた。それぞれの生活を取り戻しているのは傷が浅かった人である。深い傷を負った人はそうそう立ち直ることなんてできない。

 

 流れていく日々の中にどうにかすがりついて、置いて行かれないように生きていくだけなのだ。

 

 そして千鳥は辺りを物珍しそうに眺めながら私の隣を歩いている。田舎から出てきたばかりというのは本当らしい。


「なんだか賑やかだねぇ。あんなにボロボロだった街が嘘みたい」


「まぁ人はたくましいってことだ。最初からこんなに賑やかだったわけじゃねぇがな。ボロボロの屋根もねぇ露天から、トタンの屋根がついて。お上の配給だけじゃ生きていけねぇしいつ来るかもわかんねぇ。千鳥は田舎にいた方がよかったかもしれねぇな。少なくとも飯は食えた」


「それは嫌だねえ」


 千鳥はぽつりと他人事のようにこぼすと、汚れた茶色の上着を着た男が駆け抜けるのをするりと避けた。


「気をつけろ!」


 駆け抜ける男の怒号に千鳥はべぇっと舌を出す。


「まったく油断も隙もありゃしない。それでさ。どこに行くんだい?」


「闇市にも縄張なわばりはあるのさ。治安を守るには力が必要だ。よって闇市にも派閥ができる。まぁ馴染なじみのところさ。俺たちは持ちつ持たれつ生きてんだ」


 生きるのは大変だねぇ。と千鳥は辺りを見渡しながら歩いていく。


 それにしても変な女だと思った。得体の知れないのは私も一緒だ。こうも信用してついてくるなど、やはり田舎の生まれか。警戒心のかけらもない。まぁ、だからといって私がどうこうするわけではないけれど。


 袖に手を入れ歩いていると、賑わうひときわ大きな闇市の通りを抜ける。並ぶトタン屋根の外れから路地へと入った。千鳥は眉をひそめて両脇に並ぶ木造りの吹けば飛ぶような建物を見上げていた。


「ウチはあんたのことを信用しているけど、ウチを売り飛ばそうってんなら覚悟しなよ?」


 私がため息を吐くと千鳥はくすくすと頬を崩して、口元に手を当てた。目は弧を描いていて、路地に浮かぶ口元が今度はこちらが化かされているような気分になる。


「うそうそ。翁さんのことは信用しているさ。そんで目当ての場所はどこにあるんだい? 人の賑わいが嘘みたいになくなってしまったねぇ」


「うるさくなくていいだろう? ここの老人は人の声を嫌うんだ。まぁ・・・街が焼かれる前にはそれなりに鳴らした男らしくてね。品物に関しては信頼できる。師匠筋ししょうすじだから、あれやこれやとうるさいがな」


 そりゃ楽しみだ。と千鳥はわくわくと胸元で両手を揉んでいる。鼻歌交じりに暗い路地に浮かぶ女給仕の姿はまさに混沌としていた。


 奥まった路地の奥に、ぼんやりと明かりが見える。くすんだすりガラスの向こうでゆらゆらと揺れるのは人魂のようなランタンの灯火である。一見して民家と変わらない。焼け落ちた街には多くの家屋が建てられた、家屋と言えるか怪しいほどのボロ小屋は、闇市に並ぶ露天よりは少しマシだという程度のトタンで屋根と壁が作られる。


 嵐が来れば吹き飛んでしまいそうなほどの、雨露あまつゆをしのげればよしという程度の家屋である。

 

 まぁそれでも屋根があるだけマシか。いつの間にか目の前に現れた目的の家もまた街に並ぶ家屋と変わらない。しかしそれは表面上である。左右に並ぶ高い建物に挟まれて奥は見えない。それに表面上はトタンの壁であっても、扉だけは重厚な黒い一枚板で作られている。軽い金属で支えられることが叶わないほどの重さだろう。


 まるで地獄へ続く路地にも見えるその場所は、ひどく湿った空気が流れている。背中に汗が流れて、明かりの届かない路地で汗はすぐに冷える。湿った風が指の間を流れていって、すえた匂いが鼻をついた。人を拒んでいるような佇まいに千鳥は二の足を踏む。


 私は千鳥を横目に見て重い扉を開く。錆びた金属の擦れる音が響いた。


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