第弐章 -2- まな板と翁の商い

 昨夜に包丁の付喪、異能の力を得た付喪之人に成り果てた開襟シャツの男に襲われていた女だ。気を失った彼女を放っては置けずに、私の古道具屋に仕方なく運び込んだというわけだ。それがどうやら私の方が眠りこけて、差し込む日差しを背に受けながら女給仕が朝食の支度をしている。


 わけがわからない。まだ寝ぼけているのだろうか。


「あらあらお目覚めかしら? 太陽さんはもうすっかり起きているわ」


 女給仕は、のそりと居間で起き上がる私を振り返りながらそう言った。まるで昨夜のことが嘘かのように、まるで昔から共に過ごしていたかのような気取らない声色だった。


「何をしてるんだ? 怪我はないのか?」


 ふぅ。と女給仕は包丁をまな板の上に置いて、あのねぇ。と腰に手を置く。呆れたように眉をひそめて口を尖らせた。


「それは私のセリフだよ。本当に昨日の夜が嘘みたい。まるで狐に化かされたみたいだわ。でもありがとう。信じられないけれどね。私は無事だわ」


「それは重畳。狐に化かされたんだよ。眉の数は合っているか?」


 おかげさまでと女は笑った。まるで恐れなど知らないと思えるほどのほころんだ頬に、肩の力がすっかりと抜けてしまった。さてと、と女は腕まくりをして台所と再び向きある。


「それじゃぁ。昼行灯ひるあんどんおきなさんに、遅ればせながらの朝食でもどうぞ」


「なぜ俺の呼び名を知ってるんだ?」


 翁とは私の俗称である。街に住む大人や子供が勝手に私をそう呼んでいる。女に言った覚えはない。そりゃねぇ。と女は顎先に指先を沿わせた。


「朝目が覚めて、ぐぅぐぅと寝息を立てる命の恩人にさ、お礼に朝食をって思って買い出しをしてきたの。街の人に好かれているのね。特にお豆腐屋さんのげんさんがとても驚いていたわ。ようやく翁にも嫁が来たって! 腰を抜かして危うくお豆腐がダメになるとこだった」


 くすくす笑いをかみ殺して女は言った。私は片膝を立てて額に手を置く。また街のヤツらに噂話を提供してしまった。生きるのに精一杯だからこそ、街の人は娯楽に飢えている。まったくもって厄介だ。


「昼間はいつだって眠そうに商売をして、まるでおじいちゃんみたいだから翁だって言ってた。夜にあんな大立ち回りをしていたら、そりゃ昼間は眠たいはずだわ。誰にも言ってないの?」


「言っても信じてもらえるわけないだろう。戦火の復興を進んでいても治安はよいと言えないんだ。余計な心配ごとを増やす必要はないさ」


 優しいのね。と女は言って私は面倒臭がりなだけだと返す。


「遅れちゃったけど私は白草しらくさ 千鳥ちどりって言うの。翁さんのお名前は?」


「俺は田雲雀たひばり 八代やしろだ。もう翁と呼んでくれて構わないよ。俺は千鳥と呼ぶから気にしないでくれ」


「ふふふ。よろしくね。田雲雀さん。ちょっと待っててね。もうすぐで朝食ができ上がるから」


 高く登った朝日が台所の小さな窓から溢れて千鳥の輪郭をくっきりと作る。同じ日本の出身とは思えないほど高い鼻先に、堀の深い瞳に見惚れてしまっていた。

 いかんいかん。こうも調子を乱されている。私はキセルを立てかけておいたキセル盆から火口にタバコ草を丸めて置いた。台所から火をわけてもらい、タバコ草に火をつける。白蛇の刻印された銀色のキセルは鳴りを潜めていた。

 

 さすがに昨夜で疲れたのだろう。太陽のこぼした灯りで紫煙が反射し、眼前に広がる普段とは違う日常を包んでいく。ともかく朝飯にありつけるのだから、それが終われば出て行ってもらおう。

 思考をまとめて、天井仰ぐとガラガラと土間の開き戸の開く音がした。どうにも今日は騒がしい日らしい。開かれた扉の向こうでセミの鳴き声がもれ出ている。


 しかし開き戸が開かれたというのに一向に客人は姿を現さない。代わりに鈴が打ち合わされたような、雑多に通る声が聞こえる。


「ほら・・・翁さんの店に女の人がいるでしょ? おばあちゃんから聞いてびっくりした」


「本当だ・・・しかもこんなに綺麗な人。翁にはもったいないな」


「・・・翁にも甲斐性かいしょうがあった」


 千鳥は扉を背中にして笑い声をかみ殺している。これでヒソヒソ話をしているつもりかと、私はキセルを灰皿に置いた燃え尽きた丸まった灰が落ちる。


「おうおう。ガキ共。聞こえているぞ」


 まったくと私は仕方なく起き上がり、土間に降りて顔半分を縦に並べて中を伺う三人の子供の前に立つ。へへへ。と互いに顔を合わせて笑いながら子供たちは横並びになった。


「ふふーん。なかなか翁もやるじゃないか。ほんのちょっとだけ見直したなぁ!」


 へへへ。と刈られた頭と丸っこい頬。両手を腰に当てて胸を張る健次郎けんじろうは、袖がほつれた浴衣を着て言った。だよねぇ! と両手に鮮やかな晴れ着を抱いた、赤い浴衣の麻子あさこは身を乗り出すように私を見上げる。


「おばあちゃんも言ってたよ。とうとう翁にも嫁が来たって! おめでとう」


 違うんだ・・・ときっと街中の噂になっていて、今晩には酒の肴になるだろう噂話に、私は、もうどうにでもなれと、胸を張る。

 ぼぅっとした表情で健次郎よりもほっそりと背の高い将太しょうたが、身を横に傾け私の向こうにいる千鳥へと視線を向ける。


「・・・ちゃんと養えるの?」


「余計な御世話だ! それに嫁でもねぇ! ちょっとした縁があって泊まっていただけだ」


 ひゃぁ。と麻子が頬を染め、ひゅぅ。と健次郎は生意気に口で笛を吹く。顎先に手を当てた将太は、やっぱり甲斐性がないと言った。言われてみれば見ず知らずの人を、縁はあったとはいえ招き入れ、朝食を作らせているのだ。反論の余地はない。

 あのね。と麻子は胸に抱いた白い胡蝶蘭が装飾された晴れ着を、私に突き出す。


「おばあちゃんが今回はこれを持って行けって。もう置いておけないからって。そんでお米をお願いって言ってた。いつもごめんね」


 あぁ。と私は晴れ着を受け取る。きっと麻子の母が身にまとっていたのかもしれない。主人を失っても物には想いと思い出が宿る。どんなに忘れようと足掻あがいても物に宿る思い出は、日々の香りと一緒に脳髄を満たしてしまうのだ。


 誰もが思い出を尊く思えるわけではない。彩られ鮮やかに浮かぶ過去の情景は時に、のろいとなって生を縛る。

 きっと麻子も、麻子の祖母も同じなのだろう。だからこそせめて生きるために差し出すのだ。


「わかったよ。そんじゃ用が済んだら子供は子供らしく外で遊んでこい」


 夕方には米が手に入るだろう。そうしたら麻子の、歩くこともままならない祖母に届けてやらねばな。と考えを結ぶとちょっと待って! と千鳥の声が背中越しに聞こえた。


「たくさん作りすぎたから、あんたたちも一緒に食べていったら? ご飯はいくら食べても蓄えはあるからね!」


 振り向き千鳥を見ると、ふふん。目線は私を通り過ぎて子供たちに目尻を和らげている。それは私の米だろうというのは野暮やぼな気がした。

 私の返答を待たずに、やったぁ。と歓声を上げて子供たちは土間で草履を脱いで、ちゃぶ台を囲んでいる。なんとも遠慮を知らないガキだと私は結んだ口角を緩めた。振り向いた私の隣に千鳥が並ぶ。


「ねぇ。いいでしょう? 」


「いまさら断れるわけねぇだろう。まぁ・・・もう考えるのは止めた」


 優しいのね。と千鳥が言って、面倒臭がりなんだよと私は返す。麻子より渡された赤い晴れ着は、ちゃぶ台を囲みくすくすと笑い会う三人を見て笑っているのがわかった。

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