三章 孤独な妹
幽体離脱者としての生活も、もうすぐ三ヶ月目だ。雨宮さんも西野さんもいるし、生きている頃より楽しいくらいだ。
妹は前に雨宮さんが言っていた通り、ほぼ毎日俺の病室に来ていた。雨宮さんに仕事中だが身体の主導権をもらって、ぎこちなく話しかけることもあった。
「美樹……いや、美樹ちゃんは好きな男の子とかいないの?」
「いないですよ、うちお堅い進学校ですし」
「そうなんだ」
そこは俺の母校でもあるので知っていた。
妹は電車で片道四十分以上もかけて病院まできて、四十分以上かけて帰って行く。結構しんどいと思う。気まぐれで妹が帰るときに幽体で家までついていく。久しぶりに家に帰った。両親はまだ帰ってきていない。夜中だというのに、美樹は俺が使っていた部屋を掃除する。何故だかついてきた西野さんがああだこうだと言った。
『愛されてますねえ、このこの』
幽体同士でも触れられないのだが、西野さんは俺の肩を肘で小突くふりをした。
それから美樹は自室に戻り、風呂に入るのか着替えを箪笥から取り出して一時間ほど部屋を空けた。ドライヤーの音がこちらまで聞こえてくる。パジャマ姿で戻ってくると三時ごろまで勉強して彼女は手書きの日記を書き始めた。
「今日も兄さんは目を覚まさなかった。大好きな兄さんはいつまで寝ているのだろうか。兄さんの寝顔を見たり、学校から病院へ、病院から家へ、移動している時間は苦にならない。ただ兄さんの意識が戻らない現実が辛い。もう一年以上も昏睡状態が続いているので、このまま死んでしまうということも十分あり得る。私はそんなの嫌だ」
妹は日記を書き終わると何の冗談なのかだぼだぼの俺のパジャマを着て眠った。
西野さんに愛されてる愛されてると煽られた。
俺のことを嫌っていた筈の妹だが、翌朝、学校までついていく。俺が卒業したのと同じ進学校なのでだいたいの場所に見覚えがある。
美樹は学校では虐められていた。
全員に無視されて、ゴミを投げられたり、消しゴムのカスを机の角にこんもりと盛られたりする。聞こえるように陰口も言われていた。
美樹のどこに虐められる要素があるのだろうか? 中学の頃は、殆どテストの結果が一位だったらしいが、高校でも成績が良すぎるから虐められるのだろうか。
妹は無表情だが耐えているようだった。
彼女は昼休みは購買で買ったパンを屋上の給水塔の裏で食べ、残った休み時間はトイレで読書していた。
その日、学校から最寄りの駅まで歩いて、妹と一緒に病院まで行く。そして雨宮さんと一緒にアパートまで帰ってくる。
西野さんが、俺が愛されてるとか、美樹が学校で虐められてるとかべらべら喋る。俺のことを嫌っているはずの妹だが、虐められているのを雨宮さんに言うのは止めてほしかった。
翌日、妹が俺の病室で勉強していると、外ではパラパラと雨が降ってきた。折りたたみ傘を持っていないのなら、美樹は傘を持っていない。
「利用者が忘れていった傘が結構たまってるんだ」
そう言って雨宮さんは美樹に傘を渡した。
アパートに帰ってきて、雨宮さんが眠ると西野さんと一緒にドラクエⅢをプレイした。武闘家は一人だけ残して二人はリストラし、僧侶と魔法使いを新規加入させた。
俺がそう思ってるだけだが、ロールプレイングゲームとは、それまでクリアするのが難しすぎるゲームソフトが多かったゲーム市場に颯爽と現われた救世主だ。他のゲームと違い、RPGは時間さえかければ誰でもクリアできる。革新的なジャンルのゲームだった。現在では時間がない人が多いので、時間より金を使えばクリアできるネットゲームやソーシャルゲームが多いが、それらもRPGがなかったら生まれなかったゲームだと言える。
雨宮さんとの約束通り、二時間だけドラクエⅢを西野さんと楽しむと、眠った。
西野さんはついて来なかったが、翌日病室から帰っていく美樹にまたついていった。
その日は勉強を深夜までやって美樹は編み物を始めた。もう完成しそうなセーターだった。自分で着るにしてはサイズが大きい。そして編み上げて箪笥の一番下の引き出しにセーターをしまった。そこには沢山の手編みのセーターやマフラーや手袋があった。そして美樹は日記を書く。
「兄さんがこのまま死んでしまったらと思うと、胸が張り裂けそうだ。眠ってようと起きてこようと編んだ物を妹の私は渡すことができないけれど、死んでしまうのだけはやめてほしい。眠っている兄さんは私のことを嫌っているので、私がこんなことを日々思っているとは露にも思わないだろう。どうせ兄さんが起きてきても私は嫌われものだ。それでも目覚めてほしい。そう思うのは我ままなのだろうか」
俺は後ろから美樹が日記を書くのを眺めていて、頭がおかしくなりそうだった。嫌っていたのはお前の方だったじゃないか。
そうして美樹はベッドで眠った。
俺は寝ないで朝を待つことにした。美樹がこの部屋を出るときについていかなかったら閉じ込められてしまうからだ。
美樹。お前はいったいなんなんだ。何年間も俺を無視して、てっきり浪人生だから軽蔑されているのかと思ったよ。今更何が〝目覚めてほしい〟だ。嫌っていないなら無視なんかするなよ……俺はお前のことを少なくとも妹として見ようとしていたんだから……
他にも色々考えていると朝がきた。
制服に着替える美樹を見ないようにして、準備を済ませた彼女と部屋を出た。そして顔を洗うと彼女は手早く朝食を作って家を出た。親父と母さんはもう家を出た後のようだった。
二人でバスに乗って駅まで行く。実家近くの道路を眺めるのは酷く久しぶりに感じた。駅について、降りる駅は違うけれど妹と同じ電車に乗った。しばらく電車に揺られていると妹は先に学校がある駅で降りた。俺はそのまま電車に乗って、雨宮さんのアパートもある病院に最寄りの駅で降りた。
雨宮さんはたしか今日夜勤の明けなので、病院に行かないで歩いてアパートを目指した。幽体ではいくら歩いても疲れないから便利と言えば便利だ。そして雨宮さんの部屋の前まで来たのだが、ドアは閉められていて『雨宮さあん』と叫ぶと、缶ビールを片手に持った彼女が出迎えてくれた。
「無断外泊か。正樹もえらくなったものだな」
『……』
「心配したんだからな。病院で一緒だったんだから、どこかに行くってあたしに言う機会はあっただろ。で、どこへ行ってたんだ?」
『美樹と一緒に実家に帰ってました』
「ふうん、それだけか?」
『それだけです』
もう既に見慣れているアパートの中に入ると、西野さんはぼんやりとテレビを眺めていた。
雨宮さんはコタツに入って冷たいビールを飲む。煙草もひっきりなしに吸っているので、部屋の中は曇っている。
「なんのため実家に行ったんだ?」
『妹がどうしてるのかなあ……って』
「で、どうしてたんだ?」
『俺の口から言うのは憚られます』
「なんだよ、恥ずかしがり屋さんだなあ!」
雨宮さんは少し酔っ払っているらしかった。
『妹のことですし、俺が言いふらすのもよくないでしょう』
『いいから言っちゃいましょうよ』
テレビから目線を外さず西野さんが言った。
『いや……ただ、思ってたほど妹は俺のこと嫌ってなかったんだなあってことがわかって……』
「それだけのことで勿体ぶりやがって」
『すみません』
さすがに編み物のことや日記のことは言えなかった。
俺は雨宮さんの身体を借りて人生二度目の喫煙をした。
夜勤明けの休みが終わり、その日雨宮さんは日勤だった。
午後三時過ぎに妹が病室にやってくる。少しして雨宮さんも病室に入ってきた。
「よしっ、美樹ちゃん、明日はあたしと遊園地に行こう」
明日はたしかに土曜日で高校は休みだが、突発的なことを言う人だった。妹も戸惑っている。
「でも……兄さんのこと見てないと」
「大丈夫大丈夫! たまには遊ばないと、疲れちゃうよ、な?」
妹は無言で迷っているようだった。雨宮さんも答えを急かさない。
口を開く。
「わかりました……待ち合わせはどこでしますか?」
それから美樹と雨宮さんは明日のお出かけの詳細を話し合っていた。
二人は電車の先頭車両で待ち合わせた。俺と西野さんも雨宮さんの頭に入ってついていく。
雨宮さんの格好はこの日もダウンジャケットにジーンズ姿だった。
美樹は先頭車両で所在なく立っていた。膝下まであるチェックのスカートに白いセーターの上からグレーのダッフルコートを着ていた。肩にはショルダーポーチをかけている。
「おはよう。随分シャレオツな格好で来たね」
「おはようございます……シャレオツってなんですか?」
「お洒落ってことだよ。通じないところに時代のギャップを感じるよ。今日は楽しもうな」
「はい」
先頭車両の中は席が空いているが、美樹が立っているので雨宮さんも立っていた。
『姉妹にも親子にも見えない組み合わせですね』
雨宮さんの頭の中で西野さんが言った。雨宮さんは『うるせえ』と頭の中でつぶやいた。
そして二人は口数も少なく、ずっと電車の中で立っていた。
一時間もかからず、目当ての遊園地がある最寄りの駅まで到着する。駅からは目鼻先に遊園地がある。俺も行ったことがあるので知っていた。
遊園地のゲート前までやってきて雨宮さんは「おごるよ」と言うのだが、美樹は「悪いので結構です」と言って入場券売り場に並び、一日フリーパスは自分でお金を払った。遊園地の敷地内に入ってすぐに美樹の長い髪がばさばさと音を立てて風で揺れた。
「風呂の後とか乾かすの大変じゃない? だからあたしは生まれてこの方ショートカット」
この遊園地には酒も売っているのでそれが理由なのか雨宮さんは機嫌が良かった。
「なんとなく伸ばしてるだけです。乾かすのは大変ですよ」
早速売店に行って雨宮さんはビールを購入した。一緒に美樹の分のオレンジジュースも買ってくる。
「ありがとうございます」
そう言って妹はストローを口にした。雨宮さんはビールを一気飲みしてまた同じ物を購入していた。
ベンチに座って飲み終わると、二人は遊園地内を歩いて次々とアトラクションに乗った。都心から離れた場所にある遊園地なので空いていて何を乗るのにも殆ど並ばずに乗れた。ループがあり一回転するジェットコースターに乗るとき、俺と西野さんは雨宮さんの頭から出て幽体になって空いている席に座ったのだが、ループの部分で幽体なのに地面に落とされてしまった。急スピードで地面に叩きつけられるのではなく、ふよふよと空気が入った風船みたいにゆっくりとした速度で地面に落とされた。
遊園地内のレストランに入り、雨宮さんはそこでもビールを飲むだけだったが、美樹の分のナンとカレーのセットも購入していた。雨宮さんが買った昼食を持って美樹が待つ席まで行くと、彼女は口を開いた。
「もう邪魔だから病室にくるなって言うために連れてきたんですか?」
「そんなこと言うわけないでしょ」
「じゃあなんで?」
「可愛い子だから仲良くなりたかっただけだよ」
妹は笑う。
「あなたはレズビアンですか」
「違うよ!」
午後になっても雨宮さんはビールを飲み続け、頭の中には俺と西野さんがいるものの、アトラクションを女二人で回った。普段焼酎で鍛えているせいか、雨宮さんが泥酔するということはなかった。だが既にビールを少なくとも六、七杯は飲んでいた。
そして暗くなる前に遊園地を出た。
帰りの電車の中で、雨宮さんと美樹は無言だった。美樹が住んでいる俺も住んでいた家に最寄りの駅に先に電車は停まる。今日はありがとうございました、と深くお辞儀をして美樹は電車を降りた。雨宮さんは少し長い時間、妹に手を振って別れを惜しんだ。
俺達は雨宮さんが住んでいる海と病院がある街に着くまで、頭の中で会話した。
『美樹楽しそうでしたね』
『そうかあ? 終始クールな感じだったぞ』
実際に声を出すと危ない人なので、雨宮さんも頭の中で発言した。
『あいつはそういう性格なんです。自己主張しないし感情が顔に出ない』
『ふうん、さすがお兄ちゃんだな』
『でも、お兄ちゃんは妹のことがよくわからないものですよ』なんて西野さんが言う。
『それは性別も歳も違うわけだし……』
『あたしは兄妹がいないからよくわからないよ』
『兄妹なんていない方がいいですよ。どうせ出来に差が出るものなんだから』
『お前、そういうこと言うなよ。家族が多い方がハッピーだろ』
『そうですね……』
駅に着くと、最終に近いバスに乗って俺達はアパートへと帰っていった。
翌日、また俺の身体が眠っている病室で勉強する妹についていって実家に帰った。翌朝、妹と一緒に母校でもある高校へと行く。
相変わらず美樹は、虐められていた。彼女が教室に入ると同時に陰口のオンパレードが始まる。お前らが美樹の何を知っているのかと思った。俺の高校時代もテストの順位がいい人を強烈に嫌う生徒がいたし、県で少なくとも五本の指には入る進学校のさだめなのかもしれなかった。教師に虐めているのが見つかったら内申点に影響するので、誰もいきすぎた虐めはしない。それが余計に陰湿なように思えた。
昼休みになって妹はまた給水塔の裏で昼食をとり、トイレで読書を始めた。
学校が終わると美樹は近くの和菓子屋で菓子折を買って電車に乗り込んだ。そして俺の病室で雨宮さんがくるのを待つと、それを渡した。雨宮さんは慌てて個人的に利用者の家族から貰ってしまったお土産を更衣室にでも置きにいったようだった。
妹にストーキング行為を働いているような気分になるが、妹について実家に帰った。美樹はまた風呂に入って髪を乾かし勉強をして編み物をして手書きの日記帳に向かった。
「兄さんは今日も目覚めない。私だけよく知らない人と遊園地になんて行って楽しんでしまったから、神様が腹を立てているのでしょうか。どうせ渡せないけど兄さんに向けて編んだ編み物は病院でこっそり身体測定をしてその寸法通り作ったのでぴったりに近いサイズのはず。私はお父さんとお母さんを呪う。兄さんに優しくしなかったのもそうだし、私と兄さんを兄妹として産んだからだ。勉強なんて出来なくてもいい。誰でも少し勉強すれば入れる程度の高校に入って、兄さんと同じクラスで勉強をしたかった。もしそうなら私達はきっと恋人同士になっていただろう。だが現実の私は誰とも付き合ったことがなかった。学校で私を攻撃にするのは主に女だけど、クラスの過半数の女に嫌われたくないからか、男子が助けてくれるということもなかった。兄さんが同じクラスでも助けてくれるとは思えないけれど。だって私は嫌われ者だから。兄さんにはとくに嫌われていた」
見なければいいものを俺は妹の日記を三度読んでしまい、へんな気分になった。
妹が俺を嫌ってなかったのは嬉しい。だが好意を寄せられるというのも複雑だった。客観的に見れば妹は美形なのかもしれないが、ところどころ俺と顔が似ているため、兄妹というのを無視してもタイプではなかった。髪もロングよりショートの方が好きだ。
翌日も妹は学校でクラスメイト達に聞こえるように陰口を言われていた。助けてやりたいとは思うが、俺にできることはないと考え、病院に戻った。
明日から土日だというのに妹はまた俺の病室にきて、勉強を始めた。
やはり俺とは出来が違うのか、字は書くのが早くて綺麗だったし参考書のページを戻って前の内容を確認することも少なかった。
しばらく静かな時間を過ごした。美樹が集中して勉強すると、彼女が机と一体化したような錯覚がした。
彼女の勉強を眺めていた。少し前までは俺でも苦労することなくわかる内容をやっていたのに、もう今は何年も浪人した俺でも長ったらしい方程式を確認しないと、解けない問題をやっていた。美樹はすらすらとその問題を解く。それはまあ少しは嫉妬するが、俺は元々美樹が嫌いというわけではない。
雨宮さんと幽霊の西野さんがやってきた。
「学校よりここの方がいいか?」
雨宮さんは複雑そうな感じでそう聞いた。
「はい。兄さんと一緒に居られますし」
「ふうん。家族の絆が堅そうでいいことだな」
「別にそういうわけでは……」
サボっているわけではないのだろうが、今やる仕事がないのか、雨宮さんはしばらく俺の病室にいた。
「……明日から二連休なので雨宮さんの家に泊めてもらいたいんですけど……お金なら払います」
「金なんていらねーよ。来たいなら来いよ」
『家族が増えますね』
西野さんがそんなことを言う。
『二日だけでしょ。俺とは元々家族だし……』
『それでも嬉しいでしょ』
『半々くらいかな』
『半々?』
『雨宮さんの家に泊るのはあまり関係ないけど、結果的に妹の人生を壊してしまうんじゃないかって怖いんだ』
『秋葉さんは恐がりで真面目で優しいですね』
『褒めてる?』
『褒めてないです』
雨宮さんが上がる時間が来て、幽体二人は頭の中、美樹はヘルメットを被って雨宮さんのわりと大きいスクーターの後ろに乗っていた。
美樹がスーパーによってほしいと言い出した。そこでそれなりの量の食材を購入した。雨宮さんがお金は払うと言うのだが、妹は宿泊代だと言って受け取らなかった。
「家、両親が医者ですから愛が足りなくてもお金だけは持ってるんですよ」
なんて商店街から帰る途中で美樹は雨宮さんに言った。
「……愛は美樹ちゃんの両親にもあると思うぞ。ご両親は、正樹……いや、美樹ちゃんのお兄さんのことをよく見にくるし」
「厳しくしすぎた罪悪感からそうしてるだけですよ」
雨宮さんはそれ以上何も言わなかった。
アパートにやってきて、一人暮しにしては大きな冷蔵庫に美樹が食材をしまっていると、雨宮さんは財布から五千円取り出した。
「おばさんから、小遣い」
「え、いいですよ」
「スーパーで買った物の代金払ってくれただろ。それとは別にお返しとして小遣い」
「……わかりました」
雨宮さんが酒を飲んでいる横で美樹は料理した。
メニューは魚介類が沢山入ったクリームシチューにサラダで、途中に雨宮さんにご飯が食べたいかパンが食べたいか聞いてからご飯を炊いていた。俺もシチューをご飯にかけて食べるのは好きだ。
「勉強ばかりしてるのにどこで料理覚えたんだ?」
「学校がない日は、病院に行くまでだいたい私が家に一人なので」
「ふうん」
食事が終わり、美樹が洗い物をする。水が流れる音がした。
「美樹ちゃん、親父さんかお母さんが病院で持っているPHSの番号知ってる?」
「知ってますよ」
「じゃあ、ちょっと番号押して」
そう言って雨宮さんは美樹に携帯を渡した。番号を入力して美樹は雨宮さんに携帯を返す。俺は急いで雨宮さんの頭に入った。これで向こうからの声も聞こえる。
「夜分遅く済みません。美樹さんの友達の親で、山田と申します。今日と土曜日日曜日と美樹さんを家に泊めても大丈夫でしょうか?」
親父は少しの間黙ってから答えた。
「いいんですか?……何かと迷惑かけると思いますけど」
「いいんですいいんです。料理とか手伝ってもらって楽しいです」
「わかりました。二日間娘をお願いします」
通話を切ると、美樹は腹を抱えて笑った。
「雨宮さんって嘘吐きなんですね。びっくりしました」
「嘘と建前はコミュニケーションの潤滑剤だからな」
美樹はまた大きく笑った。
そして雨宮さんは一緒に飲む相手がいるせいか、いつもより酒を沢山飲んだ。美樹がいるから遠慮して煙草は小さな台所の換気扇前でしか吸わなかった。
「美樹ちゃんもちょっと飲む?」
「何をですか?」
「焼酎でもビールでも日本酒でも」
「未成年なので止めておきます」
雨宮さんは美樹がいるのにゲームを始めた。スーパーマリオブラザーズをプレイするのだが、一機死んだら美樹と交代した。
「やり方わかる?」
「……なんとか」
美樹と雨宮さんのゲームの腕は同じくらいだった。だから同じくらいの時間ゲームをプレイして、押し入れから取り出した布団をベッドの横に敷いて、彼女達は眠った。俺と西野さんも雨宮さんの頭の中に入った。
俺がもう少しで眠れそうというところで美樹が口を開いた。
「兄さん、目覚めますかね」
雨宮さんもまだ眠っていないようで「絶対に目覚めるから心配するな」と言った。
「なんで、そう思うんですか?」
「あたしが正樹が死ぬところを見たくないからだろうな」
「……」
二人はいつしか眠ったようだった。
翌朝、雨宮さんは美樹の作った朝食をとって、出勤していった。俺と西野さんは美樹と一緒にアパートに残った。
美樹は少しの時間マリオで遊んでいたのだが、すぐに消していつも通り勉強をして、昼になると、パスタを茹で生クリームと卵とベーコンでカルボナーラを作って食べた。味付けには黒胡椒も使っていた。
『実にわたしも食べたいですねえ』
そう西野さんが言った。
一時間ほど幽体のまま昼寝して起きると、『暇だからわたしたちも出かけましょうよ』と西野さんに言われた。
『どこも開いている場所がないからこの部屋から出られないよ』
『血が繋がった妹さんなら身体を借りられるんじゃないですか?』
言われて、妹の身体に自分を重ねようとするのだが、雨宮さんや自分の身体とは違って、重なることすらできなかった。後ろから重なろうとしたのだが、俺の胸が美樹の背中に当たってそれ以上進めない。
仕方がないので妹の勉強風景を西野さんと俺は黙って眺めた。退屈だったが後ろで参考書とノートを眺めているだけでも多少は勉強になるようだった。俺は身体に戻りたいなどとは思っていないで、今すぐにでも死にたいので勉強なんてしても意味がないのだが。
殆ど休憩もなしに美樹は一日中勉強をしていた。
雨宮さんが帰ってくる。飲みたい酒があると言って、スクーターに二人乗りしてまたスーパーへ行った。
「お菓子とか買わないんですか?」
「買うと全部食べちゃうから」
「へえ」
「自制心がないから煙草も酒も辞められないしな」
アパートに帰ってきて、親子丼に南瓜の煮付け、ツナ缶の入ったサラダを妹は作った。
疲れていたのか、食べ終わると雨宮さんは酒を少し飲んでベッドの横に布団をまた敷いて眠ってしまった。
翌日、雨宮さんは夜勤らしく、昼間に家にいた。
「どこか行きたい場所はあるか?」
「映画館ですかね」
「わかった」
雨宮さんはすぐに準備を済ませる。俺と西野さんは急いで彼女の頭の中に入った。スクーターに二人乗りして、二人は少しだけ離れたショッピングモール内の映画館に入った。美樹が恋愛映画を観たいというと雨宮さんは反対しないで二人分のチケットを買ってきた。
女三人は集中して恋愛映画を観ていたが、俺はシニックにスクリーンを眺めた。ネットスラングを使えば、ただしイケメンに限ると言われてもしかたがないくらい主人公の男は女にモテていた。しかもその男は医学部とまでは行かないまでも難関大学にストレートに合格するようなハイスペックな奴だった。俺は幽体なのにも関わらず、前の席に座った若い男の頭を囓ってやりたくなった。
映画が終わり、ファストフードで昼食を食べてアパートに帰ってきた。雨宮さんはすぐに仕事へ行く準備をした。
「鍵はポストに入れてくれればいいから、朝、時間になったら学校に行きなよ」
「帰りたくないです……」
雨宮さんは大して間を置かず答えた。
「いいよ、帰らなくても。でも親御さんの気持ちも考えなよ。あたしなんて散々両親泣かせてるからさ。今では後悔してるんだ」
雨宮さんも仕事をサボると決めたらしく、親族の具合が悪くなったと嘘の電話を職場に入れていた。
真っ暗になる前に妹が一度は行ってみたかったというゲームセンターに行き、ムキになって雨宮さんがクレーンゲームにバカにならないお金を使ってると、店員さんが景品を取れるように調節してくれた。少し早いが商店街の食事処で夕飯をとった。
雨宮さんに『正樹だけいったん外れろ』と言われ、雨宮さんの頭から外へ出た。こんな寂れた商店街に何故あるのかわからないが、女性物の下着専門店に三人は入っていった。なかなか出てこないであまりにも暇なので、殆ど吸ったことがないのに俺は煙草を吸いたくなった。そして少なくとも三十分は経ってから三人は出てきた。
『わたしも幽霊じゃなかったらいくつか買ってたのにー』
などと西野さんは言っていた。雨宮さんと妹は中が見えないようにテープをした小さな袋を持っていた。
アパートに帰ってきて雨宮さんが酒を飲んでゲームをしながら「学校で友達はいないのか?」と妹に聞いた。雨宮さんは妹が学校で虐められているのは知っている。
「いませんね。勉強命です」
引きつった顔で美樹は彼女に答えた。
雨宮さんが自分のこめかみを叩く。合図だと思って俺は彼女の頭の中に入った。そしてトイレへ入った。
『正樹、おまえ、今こそあたしの身体を使え。正体はばらさなくていいから、妹さんを慰めてやれ』
『はあ』
作戦会議を終えトイレから出る。
久しぶりだが、俺は雨宮さんの身体で焼酎を飲んだ。しらふでは自殺する前も殆ど口をきかなかった妹とは話せない。
「美樹、最近どうだ?」
『バカ! さっきまでちゃん付けで呼んでいたのに急に呼び捨てにしたらおかしいだろうが』
『すみません』頭の中で俺は雨宮さんに謝った。
「どうって、どういうことがですか?」
「そうだね……全体的に上手くいってるかとか幸せかってことを聞きたいんだけど」
美樹は訝しげな顔をした。
「普通ですね……兄さんが目を覚ましたら幸せですけど」
「家族を大切にしてるんだね」
「まあ……そうとも言えますね」
『オラオラ、もっと積極的に話せよな!』
雨宮さんが頭の中でうるさい。西野さんは軽く引いているのか何も言わなかった。
「大学は医学部を目指してるの?」
高校は理数科だし、参考書の種類からもそんなことは分かりきっていたが俺は聞いた。
「そうですね。親としては赤点ギリギリの親だと思いますけど、医者になってみんなの病気を治療しているところは尊敬しています」
妹が考えていることは俺と同じようなことだった。
そして俺はこれ以上話すことも浮かばないので身体の主導権を雨宮さんに返した。
夜中に雨宮さんの携帯に親父から連絡がくる。
「美樹が帰ってこないのですが……」
「帰りましたよ、私達の方では知りません」
「そうですか。なら警察に相談します」
「そこまでしなくてもいいんじゃないですか? 若いんだから色々ありますって」
「……失礼します」
雨宮さんの頭の中で親父の声を聞いた。冷静沈着な声色だった。
雨宮さんが美樹に親から電話がきたと話すと、美樹は慌ててスマホで電話をした。
「しばらく帰らないから。悪いことは何もしてないし心配しないで」
美樹の頭の中には入れないので親父が何を言ったのかはわからなかったが、彼女はすぐに電話を切った。
日付が変わっても誰も寝なかった。雨宮さんがどこかに電話した。俺は電話の相手の声を聞くためにまた頭の中に入った。
「もう酒入っちゃってるけど、働きたいんだ。もう一人女の子もいる」
「いいよ、うちのバイトに迎えにいかせる」
そしてすぐにワゴン車がアパートの前まで来た。少しの時間車に乗ると、スナック・インコの店の前までやってこられた。女達は着替えがあるので俺だけ客もいる店の中で待たされた。俺は色々と観察した。
自分の素人知識だと、スナックやキャバクラなどは女の子の身体に触るのはNGでそういうことをしたかったら、いわゆる、セクシーキャバクラやピンクサロン、風俗に行くしかない……と思っていたのだが、前と同じくスナック・インコの客の中には平気でホステスのブラウスの中に手を入れる中年のオヤジもいた。それを見て雨宮さんに同じことをしたら半殺しにされるだろうなと思った。
他にもホステスと肩を密着させて泣きながら飲んでいる客や、一人で来ているのにホステスを三人も席に座らせている客もいた。
そのうちのピンクのスーツに着替えた雨宮さんがあちこちの席で酒を飲んで場を盛り上げていた。
美樹もブルーのスーツを着てカウンターの中に立っていた。それを見て俺はへんな顔でもしてしまったのか、西野さんがとんできて、ホステスの子供という体でスーツだけ着て仕事はしないでカウンターの中に立っているだけだと彼女は説明してくれた。
アルバイトしているわけじゃないと言っても、水商売用のメイクをした美樹はとても十七歳には見えなかった。
カウンター席に座った客は隣のホステスそっちのけで美樹に話しかけていた。仕事ではないのだが、一応十八歳だと嘘を吐いて美樹はミネラルウォーターばかりを飲む。
美樹はカラオケ歌わされた。美樹が小学生の頃に流行った曲だった。
そして店が閉まる時間になる。
「摘発されたら困るからお金はやれないけど、お土産にもう来なくなった客のボトルを持って行きなさい」
店主のインコさんはそう言った。
雨宮さんは「やりい!」と喜んで抱えるように何本ものボトルを持って、持てない分は送迎のバイトさんに持たせて車まで運んだ。
アパートに帰ってきても雨宮さんは貰ったばかりのボトルの酒を飲んだ。
『明日は仕事行くんでしょう?』
「はあ? 明日は元々休みだから実質二連休だ」
歯も磨いてベッドの上で眠ろうとしていた美樹がぎょっとした顔で目を開いた。
「誰かそこにいるんですか……?」
「いないない! なんでもない!」
「じゃあ悪いクスリでもやってるんですか?」
「だからなんでもないって……」
それからも酒を飲んで雨宮さんは布団の上で潰れた。
翌朝、俺が起きると雨宮さんはまだ眠っていて、妹は帰ろうとしていた。バスと電車でそのまま高校へと行く。俺は心配だったので西野さんと二人でついていった。
『シスコン、シスコン、シスシスコーン』
なんてことあるごとに西野さんに煽られた。妹のことを好き好き大好き超愛してる系のシスコンではないが、頭の良さを嫉妬してコンプレックスに思っているところはシスコンだった。
高校の教室に美樹が入っていくと早速陰口が飛んできた。
男の家に泊ったんだろうね、いや、援交じゃない? でもあいつの家金持ちでしょ? ストレス発散にセックスするタイプなんだよきっと、なんか精子臭くない? 臭い臭い! いや、あいつの場合男って言っても同じ高校生ではないな、大学生……もしかしたら学校の先生くらい歳上かも、うげえ! 気持ちわりい! 自分の父親と同じような歳の男とできるもんかねえ、そのへんに良い成績をキープする秘密があるのかもよ? 夜の課外授業とか! うは! 気持ち悪ぃ! あははは! げらげらげら!
俺と西野さんは何も話さなかった。まるで自分が攻撃されたかのように俺には感じられた。
そして一時間目の授業が始まる。授業中、トイレに行ってくるといい美樹は教室を出た。
そしてトイレの個室から外は白い煙が出てきた。
最近は厳しくて未成年ではなかなか煙草を買えないので、雨宮さんのアパートから盗んできたのだと思う。嗅いだことがある臭いの煙草だった。
俺は誰かが来る前に吸い終わって、トイレから出てくれと祈っていたのだが、呆気なく教師がトイレに入ってきて、美樹を連れて生徒指導室へと行った。
こういうときは親が迎えにくることになっているのだろうが、二人とも来られないので、一週間の自宅謹慎処分を告げられ、妹一人で学校から出て行った。
美樹は一本しか吸っていない煙草のソフトを持って雨宮さんのアパートまで行った。
起きたばかりなのか眠たそうな顔で雨宮さんは玄関のドアを開けた。
「煙草盗んでごめんなさい。学校で吸ったら一週間の自宅謹慎処分になりました。またしばらく置いてくれませんか?」
「それは構わないけど……親御さんにはどう説明するんだ?」
「定期的に連絡はします。お小遣いは人より沢山貰っているのでそんなに心配しないでしょう」
「お兄さんのお見舞いはいいのかあ?」
「いいんですよ、どうせ起きないと思いますし、私のことを嫌っていた兄です」
雨宮さんはこめかみをトントンと叩いた。
『そうなのか?』
『知りませんよ。俺は逆だと思っていました』
だが、よくよく考えてみれば小学生のとき友達に唆されてお前なんて大嫌いだと言ってしまったことがあったような気もする。
「あいつは君のことを嫌ってなんかいないよ。それに必ず目も覚ます」
昨日あれだけ飲んだのだから二日酔いだろうに雨宮さんは明るく振る舞った。
「たまにはあたしが作ってやるよ」
そう言って彼女は台所の前に立った。十分もしないうちに具がモヤシと豚肉だけの焼きそばが二人前できる。
雨宮さんと美樹はコタツの向かい同士に座った。
「マヨネーズかけると美味しいぞ」
「はい」
美樹は少しだけマヨネーズを焼きそばにかけた。
「もっともっと!」
さらにマヨネーズをかける美樹。だが雨宮さんはその倍くらい自分の分の焼きそばにマヨネーズをかけていた。死語かもしれないが雨宮さんはマヨラーだったのか。
「おいしいです」
しばらくして合い鍵と自転車の鍵を雨宮さんは美樹に渡した。
美樹は一円パチンコに行ってしまった雨宮さんとは別行動して、商店街のスーパーに自転車で向かった。途中迷いそうになると滅多に見ないスマホで地図を確認していた。西野さんは雨宮さんについていってしまったが、俺はこっそりと美樹が運転するボロボロの自転車の荷台に座っていた。スーパーに着くと、美樹は普通のチョコレートではなく、お菓子作りのための材料のチョコと生クリームとココアを買っていた。それと百円均一にも寄った。そこで気がついたのだが今日は二月十四日でバレンタインデーだった。アパートに戻ってきて刻んだチョコと温めた生クリームを混ぜ、雨宮さんの家にもなんとかあったバットに流し込むと、冷蔵庫に入れ、しばらく待って固まった生チョコをまな板の上に出して、一つ一つが正六面体になるように切って、最後に茶こしでココアをまぶした。
そして自分で一つ食べると美樹はほくそ笑んで、片面に模様が描かれていて片面が透明な小さな袋の中に生チョコを数個入れた物を二つ作った。
夜になって帰ってきた雨宮さんにチョコの他に作った夕食を出し、その後で「バレンタインデーですから」と言って美樹はチョコの袋を二つ雨宮さんに渡した。「一つは兄さんのベッドサイドにでも置いといてください」
「ありがとう。いただきまーす」
『お前が先に食えよ』そう言って雨宮さんは身体の主導権を俺に渡した。
本当の話妹が作ったチョコを食べたのなんてこれが初めてだった。なめらかで濃厚な味がする美味しいチョコだった。こんな美味しい物が作れる妹に辛い思いをさせているのかと俺は悲しくなった。急いで雨宮さんの身体から出る。
雨宮さんは俺の反応を見て満足そうにチョコを一袋食べた。
翌日、俺は久しぶりに雨宮さんと一緒に病院に行った。西野さんがアパートで妹を見てくれるらしい。
相変わらず俺の身体は眠っていた。幽体の方の俺も何も食べなくて平気だし、身体の方は胸から送られる人工的な栄養だけで満足なようだった。
これも久しぶりだが、雨宮さんと昼休みにラーメン屋に行く。
「お前本当に早く目覚めろよ」
『そうは言われても……』
「気持ちの問題なんだよ、きっと」
『そうですかねえ』
翌日雨宮さんは夜勤だった。また西野さんと美樹はおるすばんだ。
深夜に療養型病棟に入院しているおばあさんが静かに息を引き取った。
電話で家族を呼ぶと、専用の部屋に遺体を運びしばらく家族水入らずの時間を過ごしてもらうと、当直の医師が中に入り死亡確認をした。その後で遺体をまた看護師の人達が霊安室へ運んで行く。
雨宮さんは駆け足で喫煙室まで行って泣いてしまった。手が震えて煙草に火を点けられない。無理に点けようとして一本折ってしまう。
『これだけは駄目なんだ。自分と関わりがある利用者が亡くなるといつも泣いちゃうよ』とこっそり教えてくれた。
朝にアパートへ帰ってきて、「うーし、スーパーで買い出しして美味いもの食うぞー」なんて元気があるように雨宮さんは振る舞った。それが余計に無理しているように俺には見えた。
妹は「お菓子買ってもいいですか?」と言う。
「いいよいいよ。これでも中卒資格無しにしては稼いでいるんだ」なんて言って喫煙者なのに黄色くない歯を見せて雨宮さんは笑った。
雨宮さんはスーパーで買い物をして、帰ってくると眠ってから、夕飯前には起きて、美樹が用意したすき焼きをつつきながら日本酒を飲んだ。
「今更だけど煙草はどうだった?」
「おいしくなかったです」
「もう吸うなよ。損しかしないから」
「はい……」
牛肉を大量に買ったのですき焼きは長引いた。酔っ払った雨宮さんは男の俺もいるというのにエロいことをずっと喋っている。最終的にもう十年くらいやってないけどね、などと言って、美樹の顔を真っ赤にさせた。
雨宮さんが眠ってしまった後、妹が親に電話する。相手の家族に迷惑がかかるからと、誰の世話になっているのか美樹は言わなかった。
また妹は雨宮さんのアパートで過ごすことになったのだが、俺みたいに自殺されたら面倒だと思って、親父と母さんは強く止めなかったのだろうか。
その日は雨宮さんの夜勤の明けだったので、みんなでショッピングに出かけた。レンタルDVDショップに行ってもブックオフに行っても妹は楽しそうに笑い、それでも本屋へ行くと参考書を買っていた。気持ちはわかる。美樹は俺と同様勉強に強迫観念を感じているようだった。
帰りに商店街にあるカラオケに行った。また雨宮さんは尾崎豊とか歌っていた。今日は美樹がいるので俺と西野さんは歌えないし、雨宮さんも酒を飲まなかった。妹は普通にAKBとかを歌ってた。スマホを持っているしユーチューブくらいは観るのだろうか。
二人ともフリータイムが終わる前に歌える歌がなくなって、ドリンクバーを飲みながら注文したバスケットのお菓子をつまみながらお話をしていた。
「お兄さんが目を覚ましたらもっと仲良くしなよ。きっとどちらも意識しすぎなだけで嫌ってなんかいないんだからさ」
そんなことを雨宮さんは言った。
「本当にそうでしょうか……?」
「本当にそうだよ。もし目覚めたお兄さんが美樹ちゃんのことが嫌いだって言ったら、あたしが顔面パンチを食らわせてやるぜ」
「ふふふ、兄さんは殴り合いの喧嘩なんてしたことないでしょうから、そんなことしたらきっと泣いちゃいますよ」
大きなお世話だ。
「おう! 泣かせてやるよ」
深夜にアパートまで帰ってきて、朝になって雨宮さんは出勤していく。
この日は妹と西野さんとアパートで過ごした。妹はずっと勉強していた。集中すると瞬きが減るようだった。それを自覚しているのか美樹はたまに目薬を差した。
その日、美樹は雨宮さんが帰ってきて眠った後も合わせて十二時間以上勉強した。俺もそれくらいしたことはあるが、きっと妹は週に何日もそんな時間勉強しているように思えた。
翌日も雨宮さんは日勤で美樹は昨日とかわらず勉強をした。学校に行って虐められるのはしんどいだろうが、折角家出してこれでは意味が薄いように思えた。
雨宮さんが帰ってきて夜、浅井さんとインコさんが遊びに来た。浅井さんはいかついおじさんなので、妹は萎縮していた。
「そんなに緊張するなって。俺はロリコンじゃないからさ。乙音姐さんにしか興味ないよ」
「気持ちわりいいんだよ! 顔面パンチ!」
そう言って雨宮さんが浅井さんの顔を殴ると、なんと鼻血が出てきた。
「わりい……やりすぎた」
「別にいいですよ。好きな女に鼻血を出させられるなんてキスされたようなもんですよ」
「……また殴られたいのか」
「はははは!」
それなりに酔っ払うと、酒を飲まなかったインコさんの運転で二人は帰って行った。
夜中明りを消すと雨宮さんが妹に聞いた。
「なんでそんなにお兄さんが好きなんだ。普通一年間もほぼ毎日なんてお見舞いにこれないよ」
「別に好きじゃないですよ」
「そうなのか」
「少しは好きですけど、それより罪悪感ですね。子供の頃から私ばかり両親にちやほやされてきたので」
「それは男と女の違いもあるし、正樹は長男だし」
「本当にそうなんでしょうか……」
雨宮さんが眠った後、彼女の身体の主導権を勝手に奪った。
妹に言う。「俺はまだ生きてるからさ、そのうち目を覚ますと思うし心配するなよ」
「雨宮さんふざけてるんですか?」
「違う本当に俺だ」
「……兄さんなんだったら、最初で最後子供の頃、私のスカートをめくったときのパンツの模様を言ってください」
少し考えて俺は答えた。
「メロンとパイナップルだったかな」
「兄さんなんですね!」
ベッドから落ちるように下の布団で寝る雨宮さんの身体に妹は覆い被さった。
それくらいはいいだろうと雨宮さんの身体で俺は妹を抱きしめる。
「小学生の頃嫌いだって言ってごめん。あれは嘘だからさ」
それから今まで言えなかった様々なことを俺は妹と話した。
「私には兄さんがいないと駄目なんです……」
「なんで?」
「安心するんですよ、何かあったら兄さんが助けてくれるって」
「ははは、過大評価だね。俺が美樹を助けたことなんてないだろ」
「居てくれるだけで安心するんです……」
妹が中々眠ってくれないので、俺の方が眠ったふりをした。
今日が終われば妹の停学が終わる。朝、美樹は雨宮さんのバイクの後ろに乗って病院へ行って、時間を置いてから親父を訪ねる。母さんも駆けつけてきて、母と妹は泣く。警察に通報したり怒鳴りこんだりしないからと、美樹が今まで世話になった人の名前を母さんは聞こうしたが、彼女は口を割らなかった。
俺はまだ心配だったので、美樹と一緒に実家に帰って、翌日高校にもついていった。
美樹が教室へ入ると、停学明けということで相変わらず陰口が飛んでくるのだが、一番大きな声で陰口を言っている女子の席まで行って、美樹はそいつの頬に思いきりビンタをした。いい音が鳴った。そして中指を立てる。
「言いたいことがあるなら、直接言えよ、バカヤロウ」
以前の妹とはかなり違っているようだった。
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