二章 幽霊

 年始の療養型病棟は騒がしかった。もう亡くなりそうな人はいないようだが、皆テレビをつけるので、いつもよりうるさい。利用者の面会にくるご家族も多いようだった。

 雨宮さんは残業らしく、いつもより長い時間病院の中で待った。

 親父と母さんと妹がまだ朝早いのに俺の病室に集まっていた。

 そして妹が持ってきたおせち料理を三人は食べ始めた。

「今年は正樹が目を覚ますといいな」

「そうですね」

 なんて親父達は話している。

 今更いい親のふりしやがって……俺を医者にすることしか考えていなかった癖して。

 少しの時間家族達を眺めると、俺は雨宮さんと一緒にバイクでアパートへ帰っていった。

「愛されてるじゃないか」

 先ほどの一場面を見ていたのか、雨宮さんは温かな声で言った。

『愛されてませんよ。彼らの行動は罪悪感からです』

「あたしにはそうは思えないけどな。家族みんながお前が目覚めることを信じてる」

『……』

 雨宮さんはアパートで雑煮くらいは作って、それを肴に熱燗を飲み、煙草を吸いまくっていた。

『眠くないんですか?』

「眠いよ、でも気力を回復するために飲んで煙草も吸わないとな」

『そうですか』

 雨宮さんが眠って起きると事前に連絡を取っていたのか、夜になってスナック店のママ、沢山インコさんと浅井さんが遊びにきた。やはり雨宮さんは昔暴走族をやっていて、二人はその頃の仲間なのだろうか。

 頭いてえ……などと言いながらさらに迎え酒を飲む雨宮さん。

「乙音、看護助手なんて辞めてうちで働きなよ」

「乙音って呼ぶな。客を酒と女で駄目にするより、病人の世話をする方が社会的に意義があるだろ」

「姐さんがスナックインコで働いたら、俺毎日通いますよ」

「だから嫌だっつーの」

「乙音はスナック嬢に辛辣だね」

「乙音って呼ぶのは止めろ」

 小さなコタツに大男の浅井さんも入るので、コタツの中はたいへん混雑しているだろう。

「お父さんが次の日元気に出勤するための手伝いをすることの何が悪いんだい?」

 インコさんは勝手に台所を借りて温めた熱燗をちびちび飲んでいた。

「お父さん、ってところが悪いだろ。お嫁さんがいい気しないよ」

「まあ夜職は必要悪ってところですね」

 浅井さんが酒を飲み飲みスカっとそんなことを言う。

「そうそう私が言いたいのはそういうことだよ」

「必要悪より必要善の方が大切だろ」

 俺は会話に参加するわけにも行かないので段々と眠くなってきた。雨宮さんのベッドの上で勝手に眠った。

 翌朝起きると雨宮さんの友達の二人は既に帰っていったようだった。

 雨宮さんが無言でアパートから出て行くので、俺は慌てて彼女の頭の中に入った。スクーターで墓地まで行く。また雨宮さんは山上家之墓の前に煙草を備えた。

 帰りに山上さんって誰ですか? と聞くと、うるせえ、ほっとけ、と言われてしまった。


 正月も終わったある日、病院の会計を済ませるための待合室でテレビを観ようとしていると、『わたしのこと誰か見える人はいませんかあ!』と叫んでいる女の子をみつけた。自分で切ったような雑なセミロングの黒髪で、人のことは言えないがパジャマを着ている。胸は雨宮さんと違って大きいようだった……などと俺はのん気なことを思った。

『見えますよ。そちらこそ俺のこと見えますか?』

『見えます……見えますよ。わたしはどうなっちゃったんでしょうか? 気づくとこの病院にいました』

『俺は秋葉正樹、あなたは?』

『西野空って言います』

 雨宮さんのところまで行くと、彼女にも西野さんの姿が見えているらしかった。

「西野ちゃん、ちょっと向こうに言ってて」

 西野さんは待合室で待ってますと言って歩いていった。

「この人、ちょっと前に飛び降り自殺してICUに運ばれてきたんだけど、すぐに亡くなっちゃって」

『……』

 待合室まで西野さんを迎えに行くと彼女は言った。

『わたし知ってますよ。ビルから飛び降りたのは覚えています。もうわたし死んじゃってるんですか?』

『……そうだよ』

 嘘は吐きたくなかったので俺は正直に答えた。

『早く成仏できるようにがんばります』

 西野さんを自分の病室に俺は連れていった。事情を説明する。

『早く身体に戻れるといいですね』

『そうだね』

 夜になって雨宮さんの日勤が終わり、西野さんと二人で彼女の頭の中に潜る。幽体離脱すると、重さや面積を失うのだろうか。だが雨宮さんの頭から出ると、自分はたしかに人の形をしていた。鏡にもガラスにも映らないが。

 雨宮さんのアパートに帰ってくると西野さんが彼女の身体の主導権を握ったようだった。俺にもできるのだから西野さんにもできるのだろう。雨宮さんが自分の頭の中で『バカ出て行け!』と怒鳴る。西野さんは素直に雨宮さんの身体の主導権を返したようだった。

 雨宮さんが夕食をとり終わると西野さんは簡単に自己紹介した。国立大学に五浪しても受からないので、自殺したのだという。俺は四浪だが一年意識がなかったので、西野さんとは同い年ということらしかった。

『俺とほぼ同じだね』

『秋葉さんはどこを受験してたんですか?』

『私立の医学部だよ。難易度は国立大学とそこまでかわらないと思う』

「あたし、中卒。遊びたい盛りのときに高校行ってただけでも偉いよ」

 雨宮さんは今日ももりもりと煙草を吸って酒を飲んでいた。

『一日どれくらい吸うんですか?』西野さんが聞いた。

「二箱半。だから貯金もあまりできないでスッカラカンだよ」

 アパートの天井は今日も白く曇っていた。

「お前らエリートに聞きたいんだけどさ。学歴ってそんなに大切か?」

『学歴がどうこうより俺は医者になりたかったんです』

『わたしは特に理由もなく浪人していたんですけど、落ちる度に自分が否定されたような気持ちになって辛かったですね。今更ですけど妥協して簡単なところに入った方が良かったです』

 翌朝も雨宮さんは日勤だった。

 人で混雑した待合室でテレビを観ていると西野さんが『お父さんとお母さんに会いたいです』と言い出した。

『いいよ、付き合うよ』

 病院から出てバスに乗って西野さんの家を目指す。バスに数十分乗って、西野と表札が出ている彼女の家まではすぐに行けたのだが、誰かがドアを開けてくれないと中に入れないので、しばらく待っていると西野さんの母親らしき女性がこんな遅い時間に新聞を取りに家から出てきた。

 お袋さんが家の中に戻るときに俺と西野さんは家の中に潜り込んだ。

 そしてお袋さんは仏壇がある畳敷きの部屋で新聞を読む。

「空……空……」

 新聞にお袋さんの涙が落ちる。

『お母さん……お母さん!』

 悲しいが西野さんの声はお袋さんに聞こえていないようだった。

 で、夜まで待って父親の姿も見た。

『お父さん! わたしだよ!』

 西野さんが何を言っても二人には声が届かなかった。

 その日は泣きじゃくる彼女と二人で泊り、翌朝仕事へ出勤する西野さんのお父さんと一緒に外へ出てバスに乗った。

 空は冬の快晴だった。

 またバスに無銭乗車して病院まで戻ってきた。

 待合室や病室でテレビを観たり、雨宮さんの働きっぷりを見て、西野さんと話して過ごした。彼女はまだ元気が出ないようだった。

 雨宮さんは帰って来られなくなってるのかと思った、と心配していた。

『人のこと言えないけどなんで自殺したの?』

 俺は西野さんに聞いてしまった。

『ノイローゼみたいなものだと思います』

『ますます、俺と同じだ』

 自殺なんて誰だって正常な状態では出来ないものなのかもしれない。

 雨宮さんと帰るときに西野さんが『スーパーに寄って下さい』と頼んだ。

「いいよ」

 商店街のスーパーで西野さんは雨宮さんの身体を借りて手慣れている感じで買い物をした。

『宅浪だったので家事もやってたんですよ』

 アパートに帰ってくると西野さんがまた身体の主導権を渡してもらい料理をした。戸棚から土鍋を引っ張り出し寄せ鍋を作った。雨宮さんはカセットコンロの上の寄せ鍋を喜んで食べて、鍋に合うビールも沢山飲んだ。

「和食は久しぶりだ……正月抜かしたら納豆と卵かけごはんくらいしか食べた記憶がない」

『またまたあ、大げさですねえ』

 西野さんは楽しそうに笑った。生きているうちに幸せになれなかったのだから、これから成仏するまでの間は幸せに笑っていてほしい。

 翌日カレンダーの日付のところに丸がついているからすぐわかるのだが、雨宮さんは仕事が休みで、彼女の身体を借りて西野さんが部屋の掃除をしていた。雑巾と箒で掃除して、明かにゴミだとわかる物だけ市が指定しているゴミ袋に入れていった。

 掃除が終わると、パチンコに行こうとする雨宮さんの身体の主導権を西野さんが奪ったらしく、「お酒、煙草まではよくてもギャンブルは悪い大人がすることです」などと言ってバスでショッピングモール内の映画館に行ってしまう。

 なんとか身体の主導権を奪い返した雨宮さんが「ヤクザ映画にしよう」と言って、一人分しか料金は払わないのに三人で映画を観た。

 映画を見終わってショッピングモール内のフードコートで雨宮さんはハンバーガーを食べる。

『映画は面白かったですけど現実のヤクザはただの悪い人です』

 ぷりぷりと怒りながら西野さんは言った。

「まあそうだよな。覚醒剤流したり、みかじめ料取ったり、工事の不正を見つけたら恐喝したりそういうのが仕事だろうな」

 人が多い所で声に出して喋るので、フードコートにいた人達が一斉に雨宮さんの方を見た。彼女は慌てて口を手で押さえた。

 帰りのバスに乗っていると西野さんが『図書館行きましょう』と言った。

 先ほどの反省点を活かしてか、俺と西野さんに頭の中に入れと小声で言うと、三人で話した。

『なんで?』

『わたしはもう仕方ないですけど、秋葉さんは目覚めたらまた受験なんですから、図書館で参考書を借りてもらいたいと思いまして』

『なるほどな。いいよ。商店街の文房具店で筆記用具も買ってやるよ』

 そしてアパートに帰ってきて雨宮さんが眠ってからコタツの前で勉強した。

 最初は何か言っていた西野さんだったが雨宮さんの頭の中に入ると眠ってしまったらしい。

 明日は雨宮さんが夜勤なので、寝ないと身体に疲れが残るかもしれないが、遠慮しないで朝の五時まで俺は勉強した。

 翌朝。

「酒も飲めないしギャンブルは西野ちゃんが嫌がるだろうし仕事まで暇だなあ」雨宮さんは体力絶倫な人だった。

 ぼろぼろのアパートから出て族車じゃない方のスクーターに乗って、高速道路を走った。雨宮さんは「幽霊達と三ケツできるなんて嬉しいよ。地球上であたしが初めてじゃないか?」と言った。何時間もそうして、また雨宮さんはラーメンを食べた。そのまま早めに職場に着くと、病院内の喫茶店で時間を潰した。

 今日も俺の病室には妹の姿があった。

 俺より出来の良い妹よ……何か打算でもあるのかい?

 自殺未遂者の兄なんていない方がいいだろう? 俺の身体に繋がれたチューブを外すチャンスでも狙っているのかい? やりたいならやれよ、俺はこんな世界に繋がれてることに我慢できないで自殺したんだ、今死んだって本望だ、やれよ! さあ、さあ! 小さい頃から何もかもお前の方が俺より優秀だったね。お前は勉強の他にスポーツも家事もできるし、顔も整っていて、天下を取れるような逸材だ。そのお前の唯一の人に見せられないところはなんだ? 決まっている、私立の医学部にすら中々入れない俺だ。恥ずかしいだろ? 殺せよ、殺せよ、殺してくれよ! お前が少しチューブを外すだけで出来の悪い兄は世界から消えるんだ、遠慮はいらない、さあやれよ。

 誰にも聞こえない頭の中で呪詛を呟いても、妹は涼しい顔をして勉強していた。つい最近まで高校の範囲の勉強をしていたのに、もう受験勉強に入っているようだった。

 妹もとっくに帰ったその日の深夜。俺の身体も眠っている療養型病棟でおばあさんが一人亡くなった。看護師が数人で霊安室に遺体を運ぶ。雨宮さんは看護助手なので行かなくていいのか、おばあさんが亡くなったベッドの掃除や点滴をかたづけていた。

 まだ仕事中なのに雨宮さんは患者や利用者も使う灰皿がある喫煙室に入った。

 煙草を吸いながら泣くので、雨宮さんは何度も咳をした。

『仕方ないんですよ、順番ですから』

「うるせえ、バカ!」

 喫煙室には俺の他には雨宮さんしかいなかったので、一人で急に叫んで誰かが驚くということはなかった。

 翌朝、アパートに帰ってくる。

「あのばあちゃんは、親族に捨てられたんだ。死ぬまで誰もお見舞いにこなかった。正樹は恵まれてるな」

 吐き捨てるようにそう言って雨宮さんはシャワーを浴びに行った。

『わたしも浴びさせてもらってきます。覗いちゃ嫌ですよ』なんて場違いに明るい声で西野さんが言った。雨宮さんを元気づけようとしたのだろうか。

 シャワーから出て、珍しく酒も飲まないで雨宮さんが数時間ほど眠ったところで、ピンポンが鳴った。雨宮さんが応対すると浅井さんだった。

「スパリゾートの招待券が二枚あるんですよ、一緒に行きましょう」

「いいよ。準備するから車で待ってて」

『若い人を遊びにつれて行かなきゃいけないからな』

『雨宮さんも若いですよ』

「だからあたしはババアなんだよ」

 スパリゾートまでは車ですぐだった。雨宮さんはワンピースの水着姿で浅井さんとプールや温泉に入った。俺と西野さんは着替えられないので相変わらずパジャマ姿のままだった。雨宮さんと浅井さんはあまり話さなかった。おばあさんが亡くなったのを彼女はまだ気にしているらしい。息を吸う必要もない、俺と西野さんは無駄にプールや温泉にもぐって遊んだ。パジャマが水浸しになることもない。

 それから昼になって、雨宮さん達はリゾート内の食事処で昼食をとった。雨宮さんは浅井さんに奢らせるつもりなのか遠慮しないで鰻重を頼んだ。

 実質デートなのに、二人の間には重苦しい空気が漂っていた。

「まだ総長のことが好きなんですか?」

「さあな」

 まだ明るいうちにアパートに帰ってきて、二人は酒を飲み出した。雨宮さんは早いペースで色々な酒を飲み潰れそうになっていた。

「今日は運転代行頼んでお前帰れ」

「泊めてくださいよ」

「やだよあたしゃか弱いババアだから力尽くで犯されそうになったら抗えない」

「そんなことしませんのに……わかりました」

 少しして運転代行の人が来て、浅井さんは帰って行った。

 深夜眠っているときに雨宮さんに俺は言った。

『浅井さん雨宮さんに絶対惚れてますよ』

「だから?」

『他にいい人もいないんだから前向きに考えたらどうですか?』

「あたしの時はあの頃のまま止まっているんだ」

 意味深なことを言う雨宮さんだった。

『どういうことですか?』

 もう眠ってしまったのか雨宮さんは答えなかった。

 夜勤明けで遊びに行って疲れているのだからそれはそうだ。

 翌朝、雨宮さんはバイクでまた山上さんの墓にお参りに行った。少し掃除して煙草を一箱供えるとすぐに帰って行った。雨宮さんが墓参りするのは不定期なようだった。

 寝てばかりの休日を過ごすと、その日の夜、雨宮さんは特攻服を着て単車で高速道路に出た。西野さんは怖いと言って留守番だったが、俺はまた雨宮さんの背中にしがみつくことにした。

 またサービスエリアで醤油ラーメン食べる雨宮さん。

『ラーメンに何か思い出でもあるんですか?』

 雨宮さんは頭の中に入れという具合に自分のこめかみをトントンと叩いた。俺は彼女の中に入った。

『まあ色々な』

 彼女はそれしか答えてくれなかった。

 翌朝日勤の雨宮さんに西野さんが『便箋と封筒と切手を買ってくれると嬉しいです』と言った。

「病院の売店で売ってるから買っておいてやるよ」と雨宮さんは明るく答えた。ごく最近の落ち込んでいる感じはもうしなかった。

 その日、日勤から帰ってきて雨宮さんが酔っ払って寝た隙に西野さんは手紙を書いた。

『どんなことを書いてるの?』

『両親への感謝とかです。他は秘密です』

『両親に感謝できるっていいね』

『秋葉さんはしてないんですか?』

『どうだろうね』

『いろいろあるみたいですね』

『そうだね』

 西野さんは朝起きた雨宮さんに手紙をポストに出してくれるように頼んでいた。

 病院では妹が相変わらず、俺の身体が眠っている個室で勉強していた。

 暗くなっても美樹は勉強している。

「身体貸してやるから何か言ってやれよ」

 雨宮さんは小声で俺に言った。

『……』

 雨宮さんに身体の主導権を渡してもらう。

「勉強は進んでる?」

 わざとらしくならないように俺は妹に話しかけた。

「そんなに問題ないくらいは」

 それだけで会話は途切れてしまう。数分間、俺達は無言になった。

「お兄さんが目覚めるといいね」

「はい、ありがとうございます。こんな美人の看護師さんに看てもらえるなんて兄は幸せ者ですね」

 頭の中の雨宮さんが身体の主導権を俺から取り返した。

「美人でもないしババアだよ。しかも独身、お先真っ暗」

「……いい人が見つかりますって」


 ある休日、雨宮さんが煙草を吸ってCDを聞いていた。

 西野さんが言う。

『アニメ観たい! ゲームしたい! ネットやりたい!』

「お前そっち方面の人なのかあ?」

『そんなにハードではないですけど、今時よくいるオタクです』

「ふうん。ならゲームだな。ソフト買えばずっと遊べるし」

 三人でスクーターに乗って中古ゲームも売っているレンタルDVDショップへ行く。

 色々話し合うのだが、ファミコン互換機とネット通販で中古で買えば送料の方が高そうなゲームソフトを何本か買ってきた。

 ついでだからカラオケにも行った。雨宮さんは運転があるので酒も飲まない。無料のドリンクバーだけ飲む。そして西野さんにも歌わせてあげていた。彼女が歌うのはアニソンばかりだった。画面にアニメが出るのでわかる。

 我慢できないで雨宮さんは酒を注文してしまう。

 ビールばかり何杯も飲んでいた。

『なんでビールばかりなんですか?』

「ビールなら量飲めるだろ? そういう気分なんだよ」

『そうですか』

 アルコールを摂取してしまったので、フリータイムが終わる時間になると雨宮さんはバイクを手で押してアパートへと帰った。

 その日の深夜、雨宮さんが寝ている間に身体の主導権を奪い、買ってきたファミコン互換機をテレビにセットして西野さんは遊び出した。

「昔のマリオってこんな感じだったんだあ。わたしが生まれる前のソフトですからねえ」

 飽きるまで交代交代でプレイして寝る。

 幽体なのに俺には眠気があった。西野さんもそれは同じようだった。

 ある日仕事が終わると、「今日は絶対に麻雀打つからな!」と雨宮さんは言った。西野さんは大人しくしている。

 朝まで麻雀を打って雨宮さんはオールで仕事へ行った。

 そしてへろへろになりながらも夜、家に帰ってきて、食事もとらずに雨宮さんが眠る中、西野さんは勝手に身体を借りてドラクエⅢをプレイした。

 翌日も雨宮さんは日勤だった。また西野さん頼みでスーパーで買い物をして家に帰ってくる。

 夕飯を作り終わりさあ食べようというところで、身体が大きな浅井さんがアパートにやってきた。

『わたし、もう一人分くらい作りますよ』

「すぐできるけど浅井も食べるか?」

「え! 姐さんの手料理を食べさせてもらえるんですか」

「……気持ち悪いからやっぱなし」

「そんなあ!」

「冗談だよ」

『じゃあ作りますね』

 その日の夕飯はミートソースのパスタで、ソースはまた使えるように多めに作っておいたので、パスタを茹でるだけですぐにもう一人分の皿をコタツに並べることができた。サラダも野菜を切るだけなのですぐに作れた。

 西野さんが身体の大きさを考慮したのか大盛りにしたパスタを浅井さんは一心不乱にすすった。雨宮さんがもう少し綺麗に食べろ、と笑いながら言った。

 二人が食事をとりおわると、洗い物は浅井さんがやった。

 そして酒も飲まずに浅井さんの車でいつものカラオケ店に行った。

 浅井さんと雨宮さんの音楽の趣味は似ていた。尾崎豊や横浜銀蠅やXが好きなようだった。雨宮さんの他に人がいるので、俺と西野さんは歌えない。

 浅井さんは我慢するようだが、雨宮さんは酒を大量に飲んでいた。焼酎、ウィスキー、日本酒、バーボン、ジントニック、果ては泡盛まで飲んでいた。酔っ払って目がうつろになっても雨宮さんは歌った。

 ふいに雨宮さんの隣に座っていた浅井さんが彼女にキスをしようとした。彼女はそれを避けて強烈なビンタを浴びせる。

「もう帰りましょうか。家まで送りますよ」

「……」

 アパートに帰ってきて雨宮さんは泥のように眠った。

 翌日の夜、浅井さんが謝りにきた。なんと土下座までした。

「そんなに気にしないでいいよ。そういうことする仲の女の子はいないのか?」

「いないんですよ……俺、顔が怖すぎるらしくて」

「男らしい顔してると思うけどね」

 雨宮さんがこめかみを叩くので、俺と西野さんは急いで頭の中に入った。

『折角きてくれたんだから、西野ちゃん、あたしの代わりに何か作ってやってくれないか?』

『いいですよ』

 西野さんはコンロについている魚焼き用のグリルを使って、余ったミートソースも使ったドリアを作った。副菜は温野菜だった。ドレッシングと一緒にコタツに並べる。スープはコンソメスープだった。

「姐さん、料理上手くなりましたね。ずいぶん洒落た物作るじゃないですか」

「黙って食え」

 浅井さんが帰ってから俺は雨宮さんをからかおうとした。

『ずいぶん歳上に人気があるんですね』

「え、年下だけど」

『またまたあ』


 ある日、雨宮さんの仕事中、俺の身体が眠っている病室で西野さんが語った。

 西野さんには出来がいいお兄さんがいて、そのお兄さんは西野さんが受けてた大学を卒業していて、西野さんは高校も彼の母校に行ったのだが、テストの点数は遠く及ばなかった。

『あんな頭のいい兄さんなんていなければわたしが死ぬ必要もなかったんですよ。頭がいい妹さんがコンプレックスの秋葉さんにはわかりますよね?』

『わかるけど、俺は自分が自殺したのが妹のせいだとは思わないよ』

『……そうですか』

 西野さんは雨宮さんが寝ている間に身体の主導権を取って毎日掃除洗濯炊事、決まった曜日にはゴミ出し……家事全般を買って出た。

 その日俺は何の気まぐれか「西野さんのお兄さんに会いにいこうよ」と彼女を誘った。「はい……」雨宮さんとは一緒に行動しないで、バスに乗って駅まで行って電車に乗って移動した。西野さんのお兄さんが務めているのは地元では有名な企業だったので場所は俺でも知っていた。

 そのオフィス街にある高いビルに俺と西野さんは入っていった。お兄さんがどの部署で働いているかは西野さんが知っていたので、大して迷わないでその部署まで行けた。大企業なのでひっきりなしに人が入ったり出たりするので、自分でドアを開けられなくても移動するのに苦労はしなかった。

 会社のその部署では西野さんのお兄さんは上司に怒られまくっていた。入社して数年経つらしいのに、昔のOLみたいにお茶くみをやらされたり、喫煙室の掃除、もっと酷いのはトイレ掃除までやらされていた。仕事は仕事だが、いい大学を出て就職試験に受かってまでやらされる仕事がそれでは報われない。

 西野さんはお兄さんを見ている間、ずっと無言だった。

 夜までお兄さんの仕事ぶりを見て、電車に乗って一緒に西野さんの実家に帰る。

 お兄さんは酒を飲んで、母親にクダを巻く。

「俺のせいで空は死んだんだ……本当はこんな駄目な兄貴なのにな」

 そんなことをつぶやいてお兄さんは涙を零した。軽く泣き上戸だ。

「空が死んだのはあんたのせいじゃないよ。もしそうだとしてもあんたは死なないでね」

 西野さんのお母さんはお兄さんの背中を優しく叩いていた。

『もう行きましょうか』

『……わかった』

 俺は見てはいけないものを見たような気分になった。

 雨宮さんのアパートに帰ってきて相談した。翌日彼女の仕事が終わると、少し遠くにあるドンキホーテで必要な物を買った。ファッションセンターで服も買った。

 丁度いいことに雨宮さんは翌日仕事が休みだったので、ドンキホーテで買ったカツラをかぶって生前の西野さんに近い服を着て、彼女のお兄さんがビルから出てくるのを待ち伏せした。

 そしてついにビルから西野さんのお兄さんが出てきた。西野さんは慌てて雨宮さんの身体の主導権を奪った。

 電信柱の陰でお兄さんに背中を向けた。顔を見せたらさすがに他人だとバレてしまう。

「兄さん、わたしは兄さんに嫉妬してたけど、死んだのはあなたのせいじゃないから。自由に生きてください」

「……空! あの手紙もお前が書いたのか!」

 西野さんはお兄さんの言葉をそれ以上聞かないでオフィス街を疾走した。頭の片隅に入っている俺も風の感触が気持ちが良かった。

 そして電車に乗って雨宮さんのアパートに帰ってきた。

 たまには酔っ払いたいということで、西野さんは身体を奪ったままガッパガッパと酒を飲んだ。

 翌朝、二日酔いらしく雨宮さんは頭を押させていた。

「それで、なんで西野ちゃんは成仏しないの?」

『今の生活も悪くないですからねー』

 西野さんは笑顔でそう言った。

「ふーん、あたしも助かってるし、まあいいけど」

 その日は雨宮さんと病院に行って、時間がくるとやってきた妹を俺は見つめた。

 お前は俺のことどう思ってるんだろうな。

 幽体というよりは幽霊の西野さんがやってきた。

『やっぱり可愛いですね、妹さん』

『血が繋がっている俺にはよくわからないよ』

 雨宮さんが病室にやってきた。

「本当は職員がご家族にそういうこと言ったらだめなんだけど、あたしはこいつは絶対にそのうち目覚めると思うぞ。応援してるから」

 美樹は大して感動した様子も見せないで「ありがとうございます」と事務的に言った。

 彼女の日勤が終わり、雨宮さんとアパートに帰ってくると、西野さんがカツ丼を作ってくれた。思わず忘れかけていた食欲が湧く。

『俺にも食べさせてくださいよ』

「だめだ、お前は居候なんだからあたしの言うことを聞かないとだめなんだ」

『一切れでいいですから!』

「わかったよ……」

 身体の主導権をもらう。甘辛くてじゅわっと肉汁が溢れてきてとても美味しかった。

 俺は約束を破ってガツガツとカツ丼を全部食べようとした。

『うわ! やめろ! いい加減にしろ!』

『そんなに喜んでもらえると嬉しいですねー、もう一食分作りますから』

 俺がものの五分でカツ丼を平らげると、西野さんはまたカツを揚げて卵でとじた。

 俺もそうだったのだろうが、雨宮さんも恍惚の表情でカツ丼を食べた。

 美味いものを食べたせいか、雨宮さんは酒をたくさん飲んだ。

 しかも武勇伝を語った。

「男には勝てないけど女には大抵勝てるよ」

 腕力でということだろう。

『こめかみの傷はどう切られたんですか?』

「タイマンの最中、刃物を出してきた女がいてね。避けたんだけど避けきれなかった。目には刺さらないで良かったよ」

『……』

 俺も少し引いたが、西野さんはもっと引いているらしかった。

 雨宮さんはなかなか眠らないで、何故だかドラクエⅢを進めた。以前にリメイク版をプレイしているらしく、西野さんはどう進めばいいのか知っているようだった。

 雨宮さんのパーティにはなぜだか武闘家が三人もいた。

『回復役がいないじゃないですか』

「そんなこと言ってもボクサーが最強だろ」

『こいつらは武闘家ですって……』

 深夜になって雨宮さんが眠った後俺は勉強をした。

『わたし、文系だから高度な理数系はぜんぜんわからないですね』

 なんて西野さんは言った。

『そう』

 頭の中で眠っている雨宮さんを感じながら、俺は朝まで勉強した。

 翌日、病院で雨宮さんに言われる。

『身体の疲れが取れないんだけど。寝ている間に身体使っただろ』

『それはごめんなさい』

 疲れているせいか雨宮さんはいつもより雑に利用者に食事を食べさせていた。

「はーい、もぐもぐしましょうねー」

「ぶぼぼぼぼ、ぶべっ!」

 その利用者は飲み込めないでおかゆを吐き出してしまった。

 それを見ていた看護師に雨宮さんは注意された。

「病人にそんな無理矢理早く食べさせないでください」

「ごめんなさい」

 頭を下げた後に雨宮さんは俺達に怒った。

『お前らのおかげで疲れているせいだからな』

 そしてその日の仕事を終わらせてなんとか雨宮さんはアパートに帰ってくる。

「疲れた……ルールを決めるぞ」

『はあ』

「あたしが眠った後は二時間しか身体を使うな。朝もあたしが目覚ましをかけている二時間より前には身体の主導権を取るな」

『わかりました』

『了解です』

 それからしばらくは夜にゲームをやって朝には家事をやっていた西野さんだったが、いつのまにか雨宮さんの頭の中にもいないし、その辺にいるということもなかった。

 成仏したのだろうか、俺はそう思っていた。

 一月がもうすぐ終わるという頃、西野さんがアパートに帰ってきた。

『勝手に出て行ってごめんなさい。またお世話になります』

「心配したんだからな!」

『すみません……でもあたしが成仏するときはもしかしたら突然かもしれませんよ』

「それはそうだな。でもあたしは西野ちゃんのこと忘れないから」

 幽体離脱者と幽霊と看護助手の生活はまだ続くらしかった。

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