幽体と看護助手
三冬咲太
一章 海が見える街
俺はベッドの上で目を覚ました。最後の記憶はビルの四階から飛び降りたところだった。これでめでたく俺は自殺未遂者だ。泣けてくる、医学部に合格するどころか、自殺すらまともにできないのか。
窓から光は漏れてこない。入り口のカーテンからは外の蛍光灯の明りが漏れ出してくる。今は夜中なのだろう。暗闇に目が慣れてくると、俺が広い個室で眠っていたということがわかった。どこかの病院に運ばれてきたのだと思う。大部屋は空いていなかったのだろうか。この部屋には俺一人しかいなかった。
ふと気づいた。身体に痛みがない。何故ビルから飛び降りたのに怪我をしていないんだ? 不安になって立ち上がると俺は病室を出た。力が弱っているのかカーテンが重くて開けないので屈んで下の隙間から出た。
病院の廊下で一人の看護師と鉢合わせになった。痩せ形で顔が整ったまだ若い看護師だった。白衣の上から水色のエプロンをしている。
「秋葉さん……! 今先生を呼んできますから」
秋葉……たしかに俺の名字だ。
病院の廊下が騒がしくなった。Yシャツにネクタイの上から白衣を羽織っている医者がやってきた。というか俺の親父だった。自殺して親父が務めている病院に搬送されてしまうなんて死ぬほどの不運だ。親父は眼鏡に短めの髪という俺の記憶と寸分変わらない見た目だった。
『親父……』
彼は俺を素通りして個室の明りを灯すとベッドを見下ろした。
「意識がないじゃないか」
「いや、そこ! 立っているでしょ」
先ほどの看護師が俺の身体を指さす。
「……冗談で呼びつけないでください」
親父は廊下を歩いて去って行った。俺は病室に戻った。ベッドの上には髪が伸びた俺が眠っていて、身体には何本かチューブが繋がれていた。横にはバイタルモニターもある。脈も血圧も安定しているようだった。
『看護師さん、今は何年の何月ですか』
ショートカットのやや美形の看護師に俺は聞いた。
「え?」
看護師さんが答えた現在の西暦は俺が飛び降り自殺をして一年程経過していた。
「で、秋葉くん。寝ている方じゃなくて今立っている方の。君はいったいなんなんだ?」
『知りませんよ』
俺は今立っている方の自分の腕や腹を見た。昔から愛用しているパジャマを着ていて、足は素足だ。手で触ってみるがベッドの上の俺とは違って髪は伸びていないようだった。今は十二月なのに寒さは少しも感じなかった。
「ちょっと来い」
看護師さんは俺の手首を掴もうとするのだが、掴めないようだった。俺は自主的に彼女の背中についていった。喫煙室で彼女は星がいっぱい書かれたパッケージから煙草を取りだして、口にくわえ火をつけた。俺は嫌煙家ではないので煙草の臭いは平気だった。自分では吸ったことがないがむしろ好きな部類の臭いだ。
「秋葉くん、君はきっと幽体離脱したんだ」
『そんなの本当にあるんですかね?』
「そうとしか思えない。君の姿が見えているのはあたしだけだし、声が聞けるのもあたしだけらしい」
『それで俺はどうしたらいいんですか?』
「そんなの知らないよ」
看護師さんが臭い消しのためなのかガムを口の中に放り込み、喫煙室から出てドアを閉めると俺はそこから出られなくなってしまった。足は地面についているし臭いも感じる、物に触れることもできるのだが力を加えて動かすことができない。足の裏に感じるはずの冷たさも感じない。幽霊みたいなものらしいのに、壁抜けもできないようだった。
数十分でナース服の女が喫煙室に入ってきて、俺はすべりこむように外へ出た。
大きな総合病院の中を歩いて、自分の身体が眠っている病棟まで戻ってくる。看護師さんが呼ぶとすぐに親父がやってきたということは、親父が務めている療養型病棟で俺は一年も昏睡しているということだろう。きっと他に入れるところもないし一応親父とは家族なので老人が多いこの病棟に俺は入れられたのだ。
俺の姿が見える看護師さんは、ときたま老人達のおむつを交換したり、寝返りを打たせたりしていた。あとは喫煙室で煙草を吸っていた。
俺はまた自分の病室のカーテンをくぐると、身体に意識が宿っている方の俺の幽体……うん、きっと幽体なのだろう。とにかく身体に幽体を重ねた。身体に幽体がぶつかるということはなかったが、身体に意識を戻すことはできなかった。
朝になって、病院の中に看護師や医者などの数が増える。俺の部屋の窓のカーテンを看護師さんが開けると、浜辺が一望できる景色が見えた。
煙草ばかり吸っている看護師さんは、老人達に手早く朝食を摂らせていた。おかゆやペースト状のおかずばかりだった。看護師さんは朝九時頃になってナースステーションの中に入って、少しして出てきた。追いかけると女性更衣室と書かれた部屋に入っていた。十分もしないうちにまた出てくる。ジーンズに赤と黒のダウンジャケットというラフな格好だった。
『看護師さん、俺はこれからどうすれば……』
看護師さんは俺と目を合わさずに答えた。
「そんなの知らないよ、さっきも言っただろ」
『そうですよね』
行く当てはないが、歩いてどこかへ行こうと俺は思った。
看護師さんと一緒に病院の外に出て、そこから分かれようとした。
「待てよ」
看護師さんは駐輪場の前で足を止めた。
『はい』
「行く所がないなら家に来るか?」
『いいんですか?』
「いいよ。食費もかからないだろうし」
看護師さんが中型に見える黒のスクーターに乗って、後ろをぽんぽんと叩いた。俺は後ろに乗ろうとした。
力の加減を間違えたのか、俺の身体は看護師さんの身体に密着した。
次の瞬間、俺は看護師さんの中に入っていた。自分の身体のように手足を動かせる。幽体を重ねることができるのは自分の身体に続いて看護師さんが二人目だ。しかも看護師さんの場合、身体のコントロールも奪えた。
『お前、何してるんだ、あたしの身体を返せ!』
頭の中で看護師さんの声がした。
『はい』
俺は身体の力を抜いた。すると目は看護師さんが見ている物が見えるのだが、身体を動かすことができないし、肉体の主導権を取られていた。
俺の幽体は看護師さんの頭の中に格納されているようだった。
スクーターに乗りながら看護師さんは言った。
「お前は秋葉正樹だろ。あたしは雨宮乙音。名前では呼ぶなよ。あとあたしは看護師じゃなくて看護助手だ。うちの病院だと水色のエプロンをしているのが看護助手」
『わかりました』
雨宮さんはくわえ煙草でスクーターを運転した。明るい景色がけむって見える。
親父の働いている病院なんて今まで行ったことがなかったが、海が近いだけの田舎だった。十分も経つと雨宮さんは駐輪場でスクーターを止めた。彼女の住んでいる場所はぼろぼろのアパートの一室らしかった。
彼女が玄関のドアを開けて、俺が中に入るのを待ってくれている。足が汚れてないか心配だったが、見ると綺麗だった。
雨宮さんの見た感じ1Kの部屋は、畳敷きで大きなゴミ袋に空き缶が大量に入っていた。他にも酒の空き瓶が小さな台所の周りに置かれている。ゴミ箱にはゴミが溢れていて、コタツの上の灰皿は大きい皿の上に小さな皿が置かれていてフィルターと灰に分かれていた。
「寝てテレビ観て、風呂入って酒飲むくらいしかやることないからさ」
雨宮さんは風呂に入ると、焼酎を飲み始めた。煙草もひっきりなしに吸っている。俺が幽体だからか、煙が目に入ることはなかった。
「これも何かの縁だから、あたしの家で暮しなよ。一人じゃドアノブも握れないみたいだけど、テレビは点けっぱなしにしてやるからさ」
『雨宮さんが仕事のときは俺も外に出ます』
「わかった」
雨宮さんは俺の前に水を入れたグラスを置く。
「この方が気分出るだろ」
『そうですね』
しかし俺は喉も渇かなければ腹も減らなかった。
「お前はどんな奴なんだ?」
『医学部に四浪して自殺未遂するバカヤロウですよ』
「そりゃあ、本当にバカヤロウだな」
『そうですよね』
「あたしゃもう寝るよ」
台所と兼用の流しで歯を磨くと、ゴミ袋が置いてあるすぐ近くのパイプベッドで雨宮さんは眠った。
俺は一人では密閉された場所から出られないし、雨宮さんの頭の中に入って眠った。別に身体を動かす主導権を取らないでも、雨宮さんの中には入れた。彼女の記憶が俺の中に入ってくるということもない。
幽体になっても眠ることはできるらしい。目を覚ますと俺はまだ雨宮さんの頭の中に潜っていて雨宮さんの視界にうつっている光景が見えた。
彼女は雀荘で麻雀をしているようだった。俺も浪人生だったからよく近くの雀荘にサボりに行ったもんだ。
『おはようございます』
雨宮さんの頭の中で俺は挨拶した。
『おはよう』
雨宮さんも頭の中で返事した。だが彼女が考えていることがすべてわかるわけではない。
雨宮さんは麻雀で最初から几帳面に字牌整理をしていた。
『そんなに揃っていない手だったら、役牌は持ってた方がいいですよ。鳴かれてインスタントマンガンとかやられたら嫌ですし、ばらばらでも三元牌ガメてれば重なって速い手ができるかもしれませんし』
『うるせえ、ほっとけ』
『他の人の牌覗いてきてあげましょうか』
『やめろ。大したレートじゃないし遊びできてるんだよ』
テンパイ煙草という麻雀用語があるが、雨宮さんは一分と空けずに延々と煙草を吸っていた。
『点五?』
『点三』
雨宮さんの打ち方は鳴きが多くてトイツを大切にして相手がリーチしても回し打ちなどしないで全ツッパする、初心者っぽい打ち方だった。ベタ降りすら殆どしていなかった。
『ハンチャンだけでいいから俺にも打たせてくださいよ』
『……いいよ』
こう言ってはなんだが点三のメンツは引っかけリーチにはよく引っかかってくれて、こちらが親のときにリーチがかかればベタ降りしないで、ツモった後に、こんな良い手だったんだと自慢する奴までいた。
結果は俺のトップだった。ピンの麻雀に比べたら必死度がこのメンツからは欠けていた。
それからはずっと雨宮さんが打っているのを見ていた。
雀荘で朝を迎えると、夜勤が明ける日とその次の日は休みらしく、レッドブルを飲んで、雨宮さんは俺を海までつれて行ってくれた。
冬の海は飲み込まれそうでなんだか怖い。だが波を観ているのは飽きなかった。
『あたしの頭から出てこいよ、走って逃げたりしないからさ』
『わかりました』
俺は幽体で雨宮さんの頭から出た。
「あたしゃサーファーじゃないけど海はいいな。落ち着く」
『そうですか』
「あれがあたしが働く病院で、お前が入院している病院でもある」
そちらを見ると確かに大きなビルのような建物があった。総合病院はさすがに大きい。
「夏になる前に身体に戻れたら良いな」
『別にどうでもいいですよ。今ここで地獄に落ちてもかまわないです』
「次そういうこと言ったら家に入れてやらないから」
『ごめんなさい』
スクーターでアパートに帰って、雨宮さんは三時間だけ眠ると、テレビを観ながら延々と酒を飲み始めた。
『俺も似たようなことをしている時期があったからわかるんですけど、酒、煙草、麻雀って逃避のオンパレードですね』
「居候のくせに偉そうに……」
『ごめんなさい』
「シャワー浴びるけど覗くなよ。ババアだから恥ずかしい身体しかしてないんだ」
『……』
雨宮さんの歳はいくつなのだろう?
そして雨宮さんは酒とテレビで過ごして、カップ麺を食べてベッドの上で眠った。俺はまた彼女の身体の中に入った。
目を覚ますと雨宮さんが、「遅刻する、遅刻する」と騒いでいた。邪魔したら悪いので俺は彼女の頭の中で黙っている。
『着替えるから一旦出ろ』
声を出す時間も勿体ないのか頭の中で彼女はそう言った。俺が雨宮さんの外に出ると、ほんの少しの時間トイレに閉じ込められた。
そしてスクーターで病院へ。雨宮さんはなんとか遅刻しないで間に合ったようだった。ナースステーションでタイムカードを押す。俺が頭の中に入っているのを忘れているのか、更衣室に入ろうとするので、慌てて幽体となって外へ出た。更衣室から出てきた白衣と水色のエプロンの制服に着替えた雨宮さんの中にまた入る。お爺さんお婆さんのおむつを替えたり入浴を手伝ったり、昼の時間になれば利用者に食事を食べさせたりしていた。俺は雨宮さんにドアを開けてもらう必要もなくドアの代わりにかかっているカーテンの下の隙間から、自分の身体が寝ている病室へ入っていった。
カーテンが開いているので外の景色が一望できる。冬で寒そうで物悲しいが綺麗な海を見下ろせた。人類が誕生したときに海は既にあったと言う。
中に戻れないが自分の身体の上に俺は寝っ転がった。中途半端に助かっていないで、さっさと死んでくれれば良かったと他人事のように思う。
俺は親父や母さんとは違う。医者になんてなれっこないのだ。
自分の身体と海を交互に眺めていた。
自分の病室でぼうっとしていると昼休みだから付き合えよと雨宮さんに言われ、病院から外へ出て、すぐ近くの商店街でラーメン屋に入った。雨宮さんに独り言を言わせるわけにもいかないので、俺は彼女の頭の中に入った。
雨宮さんはラーメンと餃子とライスをすごい勢いで食べながら頭の中で俺と話した。
『身体に戻れてももう自殺するなよ』
『約束しかねます』
『いいや、約束しろ。そうしないと家に入れてやらないぞ』
『わかりました……』
『指切りゲンマン嘘吐いたら顔面百回なーぐる、指切った』
『……何かの冗談ですか?』
『本気も本気だけど』
雨宮さんが食事を終え、また自分の病室に戻る。
何時間かぼうっとしていると、長い黒髪の女の子が入ってきた。セーラー服を着ている。俺の妹の美樹だった。
何しにきたのだろうか。バカな兄貴を笑いにきたのだろうか。
自然に置かれていたので今まで気づかなかったが、病室の壁際に木の机と椅子があった。
美樹は鞄から参考書を取り出すと、その机と椅子を使って勉強をしだした。手慣れた動きに見えた。
少しして雨宮さんがやってきて「美樹ちゃんこんにちは」と挨拶した。
妹は「こんにちは」とだけ短く言った。
俺は慌てて雨宮さんの頭の中に入った。
『机と椅子があるし、美樹って結構ここにくるんですか?』
『結構どころか一年以上ほぼ毎日きてるよ』
『なんでですか? あいつ俺のこと嫌ってましたよ』
『そんなことあたしに聞かれても知るか』
雨宮さんが仕事に戻り、美樹は幽体の俺のことが見えないが二人きりの時間を過ごした。
子供の頃からスポーツも勉強も俺より遙かに出来た美樹。なんのため、毎日ここに来ているのだろう。
夜になって雨宮さんとアパートに帰ってきた。
「ちょっとトイレに入ってろ」と閉じ込められ、彼女は着替えた。
暴走族のような特攻服を着て、サングラスをしてマスクもしている。ヘルメットはかぶっていない。
今までなんで気づかなかったのかわからないが、アパートの駐輪所にロケットカウル? の族車が駐まっていた。雨宮さんはそれに乗って「今日は頭の中にばかり隠れていないで後ろに乗れよ?」などと言った。
「はあ」
バイクに二人乗りするときは雨宮さんの身体にしがみつく腕が疲れることもないし、彼女と少し身体がかさなっても重さを感じることはなかった。
高速道路に入って雨宮さんはバイクを飛ばしまくった。一応座っている感覚もあるし雨宮さんの身体に触れている感覚もあった。掴まることができなくて怖いと言えば怖いがとばされたときはそのときだ。
どういうわけか寒さは感じないのに身体に当たる風は感じられた。後ろに乗っているだけとはいえ、楽しくないと言ったら嘘になる。
どのくらいの時間走っただろうか。
雨宮さんはサービスエリアでバイクから降りると、夜中でも開いているフード・コートでまたラーメンを食べて、その後で外の灰皿の前で煙草を吸った。寒さも相まって吐く息は真っ白だった。
『後ろにまたがるのはどうだった?』
雨宮さんの頭の中に入ると直接話しかけてきた。彼女はラーメンを食べているときからマスクを顎まで下ろしていた。
『楽しかったですよ』
『お前が身体に戻れたら、バイクも買って一緒に走ろうな』
『え、それはちょっと……』
『約束だぞ』
『……善処はします』
アパートに帰ってきて、疲れて頭がまわらないのか、雨宮さんは俺がいるのに部屋で特攻服を脱いで下着姿になった。そこで俺がいるのを思い出し、浴室と繋がっているトイレに移動した。
朝起きると雨宮さんはトーストとコーヒーだけの朝食をとる。俺は相変わらず食欲は湧かないし喉も渇かない。
話を聞くと、今日の夕方から雨宮さんはまた夜勤のようだった。彼女の頭の中に入ってついていくと、さびれた商店街のパチンコ屋で一円パチンコを打って時間を潰すらしかった。
パチンコ玉の音で店内は騒がしい。
『麻雀は夜にならないと面子が集まらないからな』
『……たしかに』
雨宮さんは台に表示されている回転数や回転率には目もくれないで、適当な台に座った。一万円札を台に投入すると玉を借りてさっそく一パチで遊び始めた。雨宮さんは右手でハンドルを捻り、打っていた。俺は麻雀と違いパチンコやパチスロはプレイヤーの実力が反映されにくいと考えるため、殆どやったことがなかった。
退屈だったので俺は雨宮さんから離れてパチンコ屋の中を観て回った。玉を飲まれて店員に注意されない程度に台を叩くおばさん、負けて台を離れる途端に座るハイエナ野郎。このうるさい場所でわざわざ電話しているチャラ男風の奴。どいつもこいつも全く憧れない奴ばかりだった。自殺なんてしてしまった俺だが、今でもできることなら医学部には入りたいと思っていた。
雨宮さんは丁度出勤しなければいけないくらいの時間に一万円すべて負けて、そのまま俺と一緒に病院へと行った。美樹はまた俺の病室で勉強していた。
療養型病棟では身体は元気でおそらく認知症のお爺さんが部屋で独り言を言いながらテレビを眺めていた。俺も後ろに立ってテレビを観る。何時間かするとお爺さんがテレビを消して眠ってしまったので、自分の病室まで行くと、親父と母さんがパイプ椅子に座って、黙って俺の身体を見つめていた。
俺が自殺したのは自分のせいで、親父と母さんのせいじゃない。ただこの二人は俺が医者になることばかりを考えて、それ以外の愛情を注いでくれなかった。
俺は幽体のまま病室のすみっこで膝を抱えて眠った。
朝、雨宮さんに起こされてスクーターで一緒に帰る。
「お前愛されてるのにな。自殺なんてしてバチ当たりな奴」
『そうですね……』
そう言いながらも両親や妹が俺を愛してくれているとは思えなかった。
家に帰ってくると雨宮さんは酒を飲んで眠ってしまった。
音量は小さいがテレビを点けて眠ってくれたのが有り難い。
六時間も眠ると雨宮さんは支度して出かけようとした。俺もついていく。スクーターが止まったのは前にも来た点三のフリー雀荘だった。
お願いすると雨宮さんは身体の主導権を譲ってくれて、麻雀をいくらか打たせてくれた。俺が打ったのもあって、翌日の朝にはパチンコの負けを七割方回収することができた。
帰りのスクーターを運転しながら雨宮さんが言った。
「マンガンテンパってるのにコクシの当たり牌止めるんだもんなあ。医学部受けるような奴はやっぱり頭の作りがちげえや」
「だって親からリーチかかってるのにブンブンきてて、四枚目のチュン掴まされたらそれは切らないでしょ」
「それでもすげえよ」
褒められて少しは嬉しかったが、所詮は素人レベルだ。麻雀なんてプロでも食える人間は少数だ。
雨宮さんはもう一日休みだが、また海に行った。俺も住んでいた親父と母さんの家があるのは、ここから車で四十分ほど離れているので、海から近くない。だからこんなに頻繁に海に行くのは人生で初めてだった。
「身体の中に戻れるといいな」
『いくないですよ』
「ああ?」
『……戻りたいです』
嘘だった。
夕方には雨宮さんも目を覚ましアパートでまったり過ごしていると、彼女の仲間から連絡がきたらしい。雨宮さんの頭の中に勝手に入って電話を聞いた。
「営業の電話かけたら、たまには乙音と会いたいって言うの」
「乙音って呼ぶな。行かねえよ」
「いつもより時給五百円上がるけどどう? 一時間で煙草一箱分も余計に稼げるんだよ」
「わかったよ……」
雨宮さんは幽体に触れられないのだがまた俺をトイレに押し込み、彼女はダークグレーのスーツに着替えた。そして送迎の車がくる。他にもスナック嬢が乗っているらしかったが、雨宮さんは無言で煙草を吸っていた。
頭の中で会話する。
『副業ですか?』
『そうだよ』
もう既に何度か行った寂れた商店街の中にネオン看板のその店はあった。スナック・インコという店らしい。
雨宮さんは店の裏口から入って、青年と中年の間くらいのソバージュの髪をした女性に化粧をされていた。
「インコ、儲かってるか?」
「はあ? 儲かってないよ」
ソバージュの女性の名前はインコというらしかった。店の名前と同じだ。
「元がいいから化粧に時間がかからなくていいわあ」
そう言うインコさんも雨宮さんより歳上のようだが、親しみやすさと上品さが同居したルックスだった。
そしてお店に出ると、雨宮さんは女性なのに尾崎豊を歌っていた。酒もさんざん客に強請っていた。雨宮さんは本当に乙音という自分の本名が嫌いなのか、お客さんにも雨宮としか呼ばせなかった。源氏名くらい決めればいいのに、と思う。
他の席で若いホステスのブラウスの隙間から手を入れようとする客がいた。その若い子も嫌がっている。
雨宮さんは、ヒールを履いた靴で、客の頭のすぐ横を突き刺すように蹴ると、「お客さん、止めて頂けないでしょうか」とガンを飛ばして言った。「すみません……」と謝る中年のお客さん。
「そういうことは奥さんとしなよ」
「……女房とはもう何年もしてないよ」
「奥さんとじゃ勃たない?」
「そういうわけじゃないけど、嫌がるんだ。今や俺より子供の方を愛してるよ」
「それは夫婦の宿命だね。AVでも観て一人でこくか、最初からそういうことができるお店に行きなよ」
「本当にごめん……」
雨宮さんが彼女目当てで来た客がいるボックス席に戻ると、お店の中は拍手で埋まった。
それからも少し働いて、雨宮さんは日払いでその日の給料を貰い、送迎で三時頃アパートに帰ってきた。彼女は潰れる寸前になっていた。ウコンの粉末を飲むと、スーツ姿のままベッドへダイヴした。
「タツ……愛してるよ」
などと寝言を言っていた。
幽霊になったのだからどうせなら女風呂を覗こうとか思う人もいるのだろうが、俺は傷心の自殺未遂者なのでそんなことをしようとは思わなかった。今でも軽く鬱だ。
妹の美樹は、その日雨宮さんの日勤が終わる時間になっても病室にいた。面会時間目一杯の午後八時まで病室で勉強してから帰って行くらしい。
俺は何が目的なのかと訝しんだ。隙を見て、点滴の管でも抜くつもりなのだろうか。そう思うくらい妹と俺は仲が良くなかった。お互い不干渉なものだが、挨拶すらろくに交わしていなかった。
帰りのスクーターを運転しながら「カラオケ行こう。一人分の料金でいけるし」などと雨宮さんは言った。
「はあ」と俺はつれない返事をする。カラオケなんて普通の人の十分の一も行ったことがないのではないだろうか。
また寂れた商店街の中の個人運営だろう小さなカラオケボックスに入った。
雨宮さんは二時間飲み放題のコースで入って尾崎豊を歌いまくり、この寒いのにビールを十分に中ジョッキ一杯より早いペースで飲み干していった。店員だか店主だかは運ぶのが面倒になったらしく「ピッチャーで頼んでください」と雨宮さんに頼んでいた。それから彼女はピッチャービールを自分でジョッキに注いで次々に飲み干していった。雨宮さんにしか聞こえないが、なんとか知っているポップソングを俺はアカペラで歌った。
雨宮さんは酒以外にもピザやらパフェやらラーメンやら色々な物を頼んでいた。それに煙草を吸いに喫煙室ばかり行っていた。
店を出るとスクーターを手で押して帰ろうとした。
『雨宮さん、俺が押しますから身体の主導権を渡して下さい』
「悪いな、本当にいいのかあ?」
雨宮さんは独り言のように実際に声に出して言っていた。
『いいですよ。お世話になってますし』
そして頭の中で眠る雨宮さんの意識を感じながら、俺はアパートへと帰った。
翌日、雨宮さんの仕事が休みのようだった。
「今日はついてくるな」と言われるが、こっそり彼女の頭の中に隠れて息を潜めた。黙認しているのか本当に気づいていないのかはわからない。
バイクでしばらく走ると墓地に着いた。
雨宮さんは「山上家之墓」と書かれた墓石を掃除して、少し拝むと煙草を供えてその場を後にした。
バイクで走っている最中雨宮さんが言った。「気づいているんだからな」
『……ごめんなさい』
「別にいいよ、他の仲間も知ってるし」
『……そうですか』
何かで亡くなった友達の墓だったのだろうか? それとも元恋人なのだろうか。
翌日、雨宮さんの務める総合病院についていって、午後三時半を過ぎた頃からは妹が勉強しているのを眺めた。仮にも四浪していた俺なので、同じく医学部志望とはいえ高校二年生の時点でできる勉強の内容くらいは七割方後ろで見ていて理解できた。俺が自殺する前の年齢に一足したのが俺の現在の年齢なので、俺は二十三歳で妹は十七歳だった。六歳差だ。
昼休み。病院内に売店もあるのに雨宮さんはまたラーメン屋に一人でいった。ラーメン大好き雨宮さんだ。しかも大盛りを頼んでいた。
その日は雨宮さんの仕事中に病院内の本屋で立ち読みしている人の後ろに立って、本を読んだ。他人のスマホもよく覗いている。雨宮さんは経済観念が強いのか、今時ガラケーだった。自殺する前の俺でさえスマホにしていたのに。
夜になって雨宮さんと一緒にアパートに帰る。彼女は疲れているのか酒を飲むとさっさと眠ってしまった。少々不義理な気がするが俺は意識が眠っている彼女の身体に無理矢理入って、玄関のドアを開けると彼女の身体から出て幽体で外へ出た。幽体のままじゃドアすら開けられないからそうしないと外へ出られない。
久しぶりに完全に一人の時間を楽しんだ。やることは深夜徘徊だ。職務質問をされる心配もない。俺の身体が眠っている病院も海も無理すれば歩いて行ける距離だった。コンビニにはヤンキーがたまっていて、飲み屋が連なる通りでは未だに騒がしかった。
そして俺は脱ごうとしても脱げないパジャマ姿のまま公園のベンチで膝を抱えた。
はあ……死にてえ……
強く思うことはそれだけだった。
夜のうちにアパートに帰って眠ると、朝になって雨宮さんに怒られた。
「お前、外に出たいときはあたしが寝る前に言え。二度とすんなよ」
「すみません」
翌日も病院で昼休みに外へ出て雨宮さんはラーメンを食べた。毎回飽きもせず醤油ラーメンを頼んでいた。
「おい、ちょっと頭の中に入れ」
ラーメン屋で声に出して言うものだから、何事かと他の客が雨宮さんの方へ振り向く。彼女は、ほほほと笑って誤魔化していた。
『はい』
俺は頭の中に入る。視界に映る物は雨宮さんが見ている景色だ。頭の中に入らないと彼女と俺は声を出してしか意思疎通ができない。
『幽体だから腹減らないかもしれないけどたまには何か食べたいだろ。しばらくあたしの身体貸してやるよ』
『ありがとうございます』
久しぶりにとる食事はとてもうまかった。ラーメンをずるずるずるずるすすってしまう。スープまで飲み干してまだ水分が足りなくてグラスに水を注いでそれも飲んだ。
雨宮さんの昼休み中、いつもより少し早めに病院に戻ってきて、自分の病室に行くと、親父と母さんが、眠っている俺の身体に話しかけていた。色々なことを話しているようだった。
思った。罪悪感からそんなことをしているだけだ。騙されないぞ、俺より出来のいい妹の方が大切な癖して。
ガラス張りの動物園の檻のような喫煙室で煙草を吸っている雨宮さんの頭の中に入った。
『俺にも煙草吸わせてください』
『いいよ、あたしの身体で吸ってもお前がニコ中になるとは思えないからな』
口の中に煙を溜めて空気と一緒に吸い込んで吐き出す。
吸い慣れている雨宮さんの身体で吸ったせいかむせることも気持ち悪くなることもなかった。酷く落ち着く。俺はいつも雨宮さんがしているように瞬く間に二本煙草をチェーンスモーキングした。
翌日、仕事がある雨宮さんとは別に行動した。アパートから外へ出て、金も払わずバスに乗って、少し遠くのショッピングモール内の映画館に勝手に入って映画三昧の一日を過ごした。他人の背中についていけば自分で扉を開けられなくてもなんとかなるものだ。元々映画も好きで、受験勉強をサボってよく観ていた。
久しぶりの自分主体の一日が楽しすぎて、他にもホビーショップやあまり興味がないが服屋、百円均一、ブックオフなどを見ていたら、田舎特有の午後九時で終わってしまうバスに乗り遅れてしまった。どうせ俺はいくら歩いても疲れるということはないし、歩いて雨宮さんのアパートに帰ることにした。
車やバイクばかりが通る国道沿いを歩いた。土地柄暴走族やヤンキーが多いので、雨宮さんの特攻服姿にもロケットカウルのバイクにもそんなに驚かなかった。考えていた。これからどうなるのだろう。
俺はまだ死にたいという気持ちがあった。身体に戻れたらまた自殺するのだろうか。
コンビニの前を通れば、灰皿の周りにたむろするヤンキーがいて、しばらく道路だけの通りを歩けば、大きくスピード違反する車高が低い車が俺を追い抜いていく。
夜の田舎街は怖いと言えば怖いが神秘的で少し幻想的だった。雨宮さんのアパートに近づいてくると酔っ払ってキスしているカップルの姿や公園の中を通るときホームレスの姿を目に入った。
そして何時間も歩いてアパートに帰ってこられた。雨宮さんはこの間は怒っていたのに、玄関のドアを開けっ放しにして、ベッドで眠っていた。
優しい人だ。
医療関係の仕事は夜勤があるが、休みが多くて有休もしっかり取れると前に雨宮さんが言っていた。
その日雨宮さんは休みで自炊していた。また身体を貸してもらえて俺に食べさせてくれるらしい。彼女が作った物はラーメン、チャーハン、餃子だった。餃子とラーメンの麺とスープは既製品だが十分に美味しかった。
「美味しかったです」
俺が入っている雨宮さんの喉からはいつもの彼女と同じ声がした。
『そうだろそうだろ。このくらい簡単なんだよ!』
頭の中でも雨宮さんの声がした。
「何を興奮してるんですか」
『いや、お前に家事が駄目な奴だと思われてるかなって』
「そんなこと思っていませんよ。一人暮しできるだけでも立派です」
その日の夜、雨宮さんはまた酒を沢山飲んだ。
「添い寝してくれ」
『なんで……?』
「いいからいいから、どうでもいいから」
『……してあげませんよ』
「あーはいはい、お願いしますよ。つーか居候なんだからそれくらいしろタコ」
そして明りを落としてシングルベッドの上で添い寝をする。雨宮さんが俺を抱きしめようとするが、彼女の腕は俺の幽体を通過した。自分から他の人や壁を通り抜けようとすればぶつかって止まってしまうのに、どういう理屈なのかまったくわからなかった。彼女だけ特別だった。
俺は雨宮さんのうなじらへんに、腕を真っ直ぐに伸ばした。バイクの後ろに乗るときと同じく、自分が触れようと思えば雨宮さんにも触れることができた。彼女が俺に触れられていると感じているかどうかはわからない。
そのうちに彼女の眠り姫のような穏やかな寝息が聞こえてきて、俺は中々眠れなかった。
何時間と経過して外から明りが入ってくる。雨宮さんの寝顔を眺めた。細すぎない細面で鼻梁が通っていて、睫が長く普段化粧をしている所なんて見ないのに、眉だけは細く整えられている。彼女は美しい女性だった。今更ながら意識してしまう。
気がつくとシャワーが流れる音が聞こえてきた。明け方になって俺は眠ってしまったらしい。別にこれからするというわけでもないのに、シャワーの音に緊張した。
その日も雨宮さんは休みだった。彼女はスクーターで出かけて、この間のスナックもある商店街の八百屋、肉屋、魚屋で買い物してどうしても揃わない物だけスーパーマーケットで買っていた。
「地域に貢献しないとな」ということらしい。
雨宮さんの買い物は迷いがなく、店を何軒もまわったのに、三十分しないうちに買い物を終えてしまった。
外は冷えるが天気が良かったからか、雨宮さんは洗濯物も何週間分もまとめてやった。とくに主張がない地味な下着が物干し竿に干されて、いけない気分になる。
「ババアの下着なんてそんなまじまじと見るな」
『見てないですよ……』嘘だった。
「ははは。そういうことにしてやるか」
雨宮さんは部屋の掃除もした。掃除機はないようで、小さな箒と濡れ雑巾で掃除をした。手伝いましょうかと俺は言うのだが、雨宮さんは、なんかやだ、と言った。
夕食のとき、またコタツの前に向かい同士に座って酒を飲んだ。俺の前にはいつも通り水が入ったグラスが置かれているだけだが。
「正樹はあたしの過去を聞かないね」
『そうですね』
「聞きたくないの?」
『聞いたら俺も色々聞かれそうだから』
「わかってんじゃん」
天井はすぐに煙草の煙で白くなった。生身だったら目が痛くなっていることだろう。
翌日、雨宮さんが仕事をしているとき、歩いて海まで行った。今更だが幽体の状態で海に入ったらどうなるのか気になったからだ。寒さや暑さは常に感じないが、水の中に入ったらどうなるのだろうか。
海の中に入ると波が俺の幽体を素通りしていく、やはり冷たさを感じない。想像していた通りの結果だった。クロールをしようとしても水をかけないし、潜っても元々息なんてしていないし、海は俺に殆ど干渉してこなかった。
もしこのまま何十年と幽体のままで、身体の方が先に無くなってしまうとしたら、俺は本物の幽霊になるのだろうか。
また夜中、族車仕様のバイクで雨宮さんは高速道路を走った。後ろに乗っている俺は風が当たっているのはわかるが寒さは感じない。
彼女はこの間とは違う特攻服を着ていた。背中の真ん中には縦書きで真阿駄亜走車総長と書かれていた。
雨宮さんは飽きもせず醤油ラーメンをサービスエリアで頼んだ。
『炭水化物と塩分取り過ぎで病気になりますよ』
「病気になるのが怖かったら酒も煙草もやらないよ」
翌日、たまには親父と母さんの仕事っぷりを眺めることにした。親父は俺も入院している療養型病棟の医者で、母さんは小児科の医者だ。
親父は寝たきりや意識が朦朧としているお年寄り達の診察をして回っていた。母さんは小児科の外来で子供に優しく話しかけて注射を打ったりしていた。
二人とも立派に仕事をこなしているように見えた。
俺は無理だが妹もいつかはそういう大人になるだろう。
虚しい。
何故だか死にたくなったので階段を上り、庭のようになっている屋上から飛び降りようとしたのだが、転落防止用の柵を上れないので諦めて戻ろうとした。
「こら、自殺しようとしただろ」
雨宮さんが俺の前に仁王立ちしていた。
『もし目覚めても俺は医者になれないでしょうね』
「わからないだろ」
『雨宮さんに何がわかるんですか』
「偉そうなこと言ってると家の中に入れてやらないぞ」
『ごめんなさい』
雨宮さんは触れられないのに俺の幽体を抱きしめた。
「よしよし、聞き分けの良い子はおばさん好きだよ」
『おばさんじゃないでしょ』
「おばさんだよ、しかも中卒」
こんな若々しいのに自分をおばさんだと雨宮さんは言う。そうは言ってもきっとせいぜいが二十五歳から二十八歳くらいだと俺は予想した。
クリスマス・イヴになった。雨宮さんはまた夜勤だった。
雨宮さんは午後になると病室に入って、持ってきていたレジ袋から髭眼鏡やら赤いサンタクロースの帽子を取り出して俺の身体にかぶせて遊んだ。相変わらず来ていた美樹もくすくすと笑う。
「このままにしておくと美樹ちゃんのお父さんお母さんに怒られちゃうからな」雨宮さんはそう言って、身体の方の顔から髭眼鏡や帽子を取った。
「お父さん達、それくらいじゃ怒らないと思いますよ」
「いや、でも、あたし部下みたいなもんだし……しかも二等兵クラスの」
美樹はまたクスクスと笑った。
「クリスマスプレゼント代わりだ」
雨宮さんは個室の中にある冷蔵庫からシュークリームを取ってくると美樹にあげた。
「秘密だからな」
「ありがとうございます」
美樹はシュークリームを手で千切ってクリームをすくいながら食べた。
「雨宮さんもたいへんですね。こんな日くらい恋人と一緒に過ごしたいでしょ」
「生憎恋人はもう何年もいないんだな」
「へえ、綺麗ですのに」
雨宮さんは顔を赤くした。
「急にどうした! おばさんをからかって遊ぶんじゃない」
「いえ、本心を言ったまでです」
美樹は柔和に頬笑んだ。
夜になって美樹が帰ると、眠くなったので身体がある個室のすみっこで膝を抱えて俺はしばらく眠った。
それから深夜、夜の病院を徘徊した。
幽体離脱していようが怖いものは怖かった。療養型病棟もそうだが、この病院で亡くなった人達の叫び声が聞こえてきそうで、寒さは感じないのに背筋がひんやりしたような気がした。
イヴじゃない方のクリスマスが雨宮さんにとって夜勤明けだった。
コンビニで色々買い込んでアパートに帰ってきた。
日本酒、ワイン、ウィスキー、焼酎などをチャンポンで飲んで、コンビニの唐揚げを雨宮さんは食べた。エアコンをガンガンに利かせて、彼女は下着姿になってしまった。活発な性格の割りに下着は上下白と奇抜でも拘りがあるようにも見えなかった。
『外には出ないでくださいね……捕まりますよ』
「誰もこんなババアの下着姿見たくないっていうことか!?」
『雨宮さんババアなんですか?』
「ババアだよ。ネットでオタク達が言うような意味ではなくて、普通にばばあ。可愛く言っておばちゃん」
『……そうですか』
きっと謙遜だろう。
酔いつぶれてしまった雨宮さんの頭の中で眠っていると玄関のピンポンの音で目が覚めた。雨宮さんは急いでジャージを着ると、応対した。
大きなレジ袋を二つ持ったスポーツ刈りの大男が立っていた。俺や雨宮さんよりだいぶ歳がいっているように見える。顔は強面だ。
「眠いから帰れ」
雨宮さんはそう言ってドアを閉めた。
「姐さん! 開けてくださいよお!」
彼女はドアを開けた。
「ああ、もうっ、なんでお前はそんなに間が悪いんだ」
「男でも連れ込んでたんですか?」
「男なんていねえよ」
雨宮さんはまだ酔っ払っているようだったが、男が買ってきた酒でさらに酔っ払った。
「浅井、お前、今運送会社の方は稼ぎどきなんじゃないのかあ?」
「無理言って休み取ったんです。若い奴に任せます」
雨宮さんも若干そうだが、浅井という男の声は煙草焼けしていた。
それから雨宮さんと浅井さんは、ずいぶんと長い時間、話し込みながら酒を飲んでいた。俺が横から雨宮さんにごちゃごちゃ言って邪魔をしてはいけない。
俺も眠くなって、船を漕いでいるとベッドの上から音がした。
目を開けると雨宮さんは浅井さんに押し倒されていた。
「俺、まだ姐さんのことが好きです」
「……」
雨宮さんは器用に足で浅井さんの股間を蹴った。
彼はベッドから転げ落ち、しばらくの間悶絶した。
「お前、次やったら家にいれないからな!」
「……すみません。運転代行呼んで今日はもう帰ります」
「おう、帰れ帰れ」
幾ばくかの時間で運転代行の人がくると、浅井さんは帰っていた。
それからも雨宮さんはしばらくの間一人で酒を飲んだ。
夜寝ているときに、俺は聞いた。
『浅井さんでしたっけ。案外大切にしてくれるんじゃないですか?』
「あたし好きな人いるから」
『墓の中の人ですか』
「さあね」
翌日の朝早く雨宮さんの携帯に電話がかかってくる。俺は彼女の頭の中に入って電話を盗聴した。
「年末年始は顔を見せなさいよ」
歳がいった女の声だった。
「やだね、あたしを待っている利用者達がいるんだ」
「医者でもなく看護師でもなく看護助手の分際で……」
「うるせえバカ! 切るぞ」
「乙音」
「なに?」
「クリスマスはどうだった?」
「大きなお世話だ! じゃあな」
雨宮さんは携帯を切った。俺も雨宮さんの頭の中から出た。
『親と仲悪いんですか?』
「昔はな。今は仲良しだよ。お前こそ年末年始くらい家族で過ごしたらどうだ?」
『どうせ、見えないでしょ……』
もうすぐ今年が終わるというのに、妹は毎日俺の病室で勉強していた。親父と母さんもそれを咎めない。
何を期待しているんだと、俺はイライラした。
雨宮さんが食堂のような休憩室で仲間達と話している。病院内の未婚の医者や看護師と合コンをすると話していた。女は無料だと聞いて、雨宮さんも行くことにしたようだった。
その日の夜に、病院から離れた場所にある居酒屋で合コンが開かれた。
雨宮さんは酒をガッパガッパ飲んでべらべらと喋った。それでも雨宮さんはへんに女らしいところがないので結構モテているようだった。だが誰に聞かれても歳だけは教えないようだった。
未婚の医者の周りには沢山の看護師や看護助手が取り囲んでいて、男の看護助手と事務方らしい男の人は人気がないようだった。雨宮さんは彼らとよく話した。
「あんたらやっぱり将来的には結婚したいの?」
「こんな仕事ですからね。誰だって身体を壊すしいつかは死にます。その前に未来を繋ぐための子供が欲しいっすから」
自己紹介のときに看護助手だと言っていた男が、雨宮さんの質問に答えた。
「でも、子供ができるってことは自分より優先する命ができるってことだぞ」
「それはまあ……そうですけど、みんな結婚してるじゃないですか。きっと悪くないってことなんですよ」
「すいませーん、芋焼酎のロック、ダブルで」
雨宮さんは聞いているのか聞いていないのか、酒を追加で注文していた。
「そりゃ、自分の子供は可愛いだろうからね。でも金も必要だよ。資格取って看護師になったら? その方が人生事故る可能性が減ると思うけど」
「言われなくても看護師になろうとは考えていますよ」
男はビールばかりを飲んでいる。
いつしか雨宮さんは潰れてしまい、男に肩を借りて二人でタクシーに乗り込んだ。そして近くのラブホテルへと入っていった。俺、ついていっていいのか? ……と思いながらもついていってしまった。
無人のフロントでパネルを見て部屋を選ぶと、鍵が下から出てきた。廊下を歩いて部屋を解錠して二人は中に入った。男が先にシャワーを浴びているときに雨宮さんはベッドの上で我に返った。
『やっちゃうんすかあ?』
『やらねえよ!』
男がバスローブを着てベッドに近寄る。
雨宮さんは立ち上がり、右手で額の前髪を上げた。右のこめかみにナイフで切られたような傷痕があった。
「あたし、半分堅気じゃないんだけど、後悔しない?」
雨宮さんは妖艶に笑った。
「ホテル代とタクシー代置いていきますから」
二万円置いて男は部屋から出て行く。
「儲け儲け」
嬉しそうに言って、雨宮さんは大きなベッドで朝まで眠った。
昨晩の件でむしゃくしゃしたのか、大晦日から元旦の朝まで夜勤らしいというのに、雨宮さんは特攻服を着て、高速道路をカッ飛ばした。
随分スピードを出しているので話しかけたら危ないかもしれないが俺は頭の中で話しかけた。
『こめかみの傷なんですか?』
「昔、恋敵に切られたんだよ」
風に消されないように大きな声で雨宮さんは言った。
『へえ』
サービスエリアで雨宮さんはまたラーメンを食べて、食後に煙草を吸い、アパートに帰り少し眠ると、すぐに大晦日の夜勤の時間がやってきた。
病院の中は悲喜交々だった。俺が眠っている療養型の病棟では、亡くなる人もいて、親父が死亡確認していた。
母さんが働いている小児科も見に行ったのだが、テレビを朝まで見たいとか両親がこないとか泣いている子供がたくさんいた。
そして日付が変わりそうになる。
雨宮さんとその他大勢とナースステーションの中でカウントダウンをして新年を迎えた。
『今年もよろしくお願いします』
『早く目を覚ましなよ』
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