水面鏡

枯れる苗

水面鏡

ぼんやりする意識の中で、真っ白な天井を見ていた。薄い幕を下ろした様に歪む視界には、誰の顔もないはずだ。遠くで啜り泣く蝉の声は、窓越しでも微かに耳障りだった。ここがどこだか知らないけれど、暑い夏の日を置き去りにした場所だと云うことは分かる。

頭に気持ちの悪い痛みが漂って、脳みそをゆっくりと掻き混ぜているみたいだ。僕はこんなにも静かにしているというのに、頭の中のナメクジは主人に似なかったみたいだ。こうして何も焦らない日は珍しい、の、だろう。不思議と背中の真上がムズムズして、心臓の音が激しくなる。やらなきゃいけない何かを忘れているのだろうか。いや、何も思い出せない。全てを思い出せなくてもいい。何か一つ思い出せることを探したい。

体に繋がれた無数の管が大きな機械に繋がれている。きっと僕は罪人だ。まるで鎖に繋がれる醜い囚人だ。僕を逃がすまいとここでこうして繋いでるのだろう。それにしては優しい掛け布団、軽くてふかふかで絹のようにキメの細かい手触りだ。管が繋がっていることが恐ろしい。注射は苦手なんだ。気にしていないと云う自己暗示で別の事を考えなければいけないけれど、この部屋にはろくに面白いことがない。思わんとする心がむしろより深く考える結果につながる。嫌な皮肉ではあるけれど、これが逃げる僕に対する罰なのかもしれない。

二つの相反する心があるからといって、一方が間違いであると思い込むのは野暮である。結局のところは嘘偽り無い誠の心をひとつ潰してもう片方を取らなければならない。これでなければ伝わらないし、どちらも伝えるとどちらも軽く思われるものだ。残念な事に僕の腕にはきっと針が刺さっている。針が刺さっていない事にすれば確かに気を紛らわせることは出来るはずた。しかし、刺さっていると自覚して、この針を外さなくてはこの不快感が、そこに鎮座するばかりである。

入口の方から声が聞こえる。足音は二つか三つか、楽しそうな男達だ。扉に貼られた大きな曇ガラスからそのシルエットが見えてくる。細長い楕円と丸っこいやつだ。扉の前で立ち止まって何やら話し始めた。扉まで少し距離があるせいではっきりと聞こえない。楽しそうな声は止み、何かを始めそうな予感だ。ドアを三度ノックした。

「あれ、先生。ノックって二回だっけ、三回だっけ? まぁいっか。こんにちは」

開いた扉の向こうには背の高い若男と白衣を着た丸っこい中年が居た。中年の方はズカズカと部屋に入ってきて「目が覚めてるね、順調順調」と、大きな装置に近付いた。若男は入口付近でグズグズやっていて、それから申し訳なさそうに入ってきた。

「なんだい、あんた。扉の前まではあんなに息巻いてたのに。情けないね」

「仕方ないじゃん。分かってくださいよ」

僕は二人の蚊帳の外から会話を聞いている。さっきまでこの部屋の主人だったのに、まるで小道具になったみたいだ。若男の方がどうやら僕と関係があるみたいだが、チラチラこちらを見てくる様子が不快だ。

「それじゃぁ、私はもう行くから。帰る前にちと寄ってってね」

一通りの作業を終えたらしき中年は、若男にウィンクを送って足早に部屋から去った。

若男が僕を見る。思い出せそうな予感がするけど、思い出すにも頭が気持ち悪い。「君は誰だ」僕が聞くと、彼は笑った。

「随分失礼だね。もう少し紳士的に話そうよ」

「はぁ」何となくそんな言葉に流されてしまいたくなる。「呼び方が分からないと不便だから、せめて名前を教えてくれないか」彼は少し悩みながら、こちらに二度視線を送って目を逸らせた。その態度の方がよっぽど無礼にも思えるけれど、何も知らない僕となんでも知っている彼では当然こちらが不利だ。仕方なしに放っておこう。

「ロキだよ。初めまして、晃一さん」

そんな名前を名乗るのだから、よっぽど自惚れているのかただの厨二病か。なんだって構わないけれど、またひとつ彼の事が苦手になった。

「ロキ、君は何をしに来たの?」

「僕の顔を見て何も思い出さないかい?」

ロキはようやく顔をこちらに向けて、真正面から僕の目を捉えた。僕はその顔の特徴に見覚えがあるような気がしてならない。それからロキはニッコリ笑い、僕の手を握った。気持ちの悪い男だと、頭は心に告げる。心はその警告を無視して、彼に目を奪われる。繋がれた管は血管をちぎるみたいにブチブチ外れ、液体がシーツを濡らす。彼の手は、僕の手と違い若々しい。

窓の外が騒がしくなる。二羽の鳥がバタバタと荒々しい様子で狭い室内に体をねじ込んだ。黒い羽根が何枚も何枚も落ち、カーテンは千切れ、蛍光灯が割れる。私は彼から手を離せなくなっていた。ロキの顔が若返る。青年に、それから、少年に。鳥が駆け回った所から、部屋は腐り始め、崩れ落ちていく。黒く変色した肉片が骨から解れ落ちる様に崩れていくのだ。

「宏樹」

口から漏れ出すその名前に、聞き覚えがある。しかし、僕はそれが誰なのか思い出せない。咄嗟に手を離すと、僕の腕から薪が落ちた。

「パパ?」

宏樹は私の足元で、心細そうに見上げている。

十歳になったばかりの少年の小さく無辜な願いだった。私は限りある休みの一部分を切り取って、宏樹と山に来ていた。向こうの山の表面から真っ赤に燃える夕陽がまだ名残惜しそうにこちらを見ている。

「なんでもないよ。さ、カレー作ろ」

宏樹の顔は磨いた宝石みたいに輝いて幸せいっぱいの顔で頷いた。

「うん、頑張ろうね。パパ」

手を繋いで夕日の方へ歩く。向こうにテントがあって、そこに私の幸せがある。宏樹の手は小さい。一生懸命に掴んでも、私の指一本を掴むのがやっとだ。


「美味しかったね」

宏樹の顔を焚き火が照らす。熱くは無いだろうか、この子の薄い肌に、白くか弱い肌に、この焚き火の熱は熱過ぎる。そうだ、きっと、熱くてこまっている。どうにも心が落ち着かない。宏樹は火を目に入れて、その向こうに何かを見る。この子の為ならば私の身をいくらでも焼こう。

「また来ようね。宏樹」

宏樹は頷く。頷く度にまたあの笑顔を作るので、私は宏樹の頭を撫でて目線を逸らせた。焚き火が少しずつ弱くなる。

「そろそろ寝ようか」

宏樹は一目散に寝袋に入った。膨らんだ寝袋が愛らしい。私も同じ寝袋に入る。

細い腕が、僕の肩に伸びてきて、絡む。胸部に感じるのは熱く、柔らかい感触。布越しでは無いシーツや掛け布団の感覚が心地好い。熱い吐息は耳を震わせ、震える声は心を舐めた。冷たい肋骨の感触を得てから厚い柔らかな肉を感じる。肌に手を滑らせて、その形を確認したら、愛らしい声が聞こえてくる。長い髪の生え際から毛先まで手を添わせるとなんだか優しくなった気持ちになる。肌がお互いの交流を遮っている。この子に触れていない部分が寂しい。肌を重ねている距離が遠すぎて、もっと近くに抱き寄せたい。いつの時からか重なっていた唇を離すとお互いの荒い呼吸が聞こえる。なんだか可笑しくなって二人で顔を見合わせて笑った。

「奥さんに怒られちゃうね」

わざと挑発する声だ。唇に孤独を忘れさせ、舌を共有のものとした。

「気持ち悪」

耳元で誰かが囁いた。男の声だ。引き裂くような、冷たい声。とっさに振り返る。後ろにあるのは大きなテレビだけ、そこに映るのは自分の醜態だけ。

「ロキ」

あいつの声だ。あいつの声に違いないんだ。しかしそこに姿は無い。

「なんだよ、名前呼んだだけ?恋しくなっちゃった?」

目の前の女が髪を掻きあげる。指の間を艶やかな繊維が通り抜けて、邪悪な顔つきの女が現れる。悪戯な笑みを浮かべて僕を見つめた。

「もうおしまい?」

僕は驚いてベッドから転がり落ちる。下半身を異様な程の浮遊感が支配して、立ち上がれない。こいつが何者なのか考えなきゃいけない。とにかく何も声を出せないまま、こいつと見つめ合う。「がぉ」ロキの声に飛び上がって頬を涙が伝う。

「冗談じゃん。でも分かったでしょう。あなたってクズなの。死ぬ気になった?」

「は?」

情けない声を上げる。今はそんな変な軽口を交わせるほどの余裕が無いんだ。「ってふりしてるよね。脳みそはちゃんと動いているくせに。ダメな子のフリしていれば良いって言う考えは捨てなよ。不倫男なんだからさ」ロキは僕に近寄った。奴はニッコリ笑って頭を撫でた。「はぁ、気持ち悪い」愛おしそうに、憎たらしそうに。




ぼんやりする意識の中で、真っ白な天井を見ていた。薄暗い幕を下ろした様に歪む視界には、誰の顔もないはずだ。遠くで啜り泣く蝉の声は、窓越しでも微かに耳障りだった。ここがどこだか知らないけれど、暑い夏の日を置き去りにした場所だと云うことは分かる。枕元で笑い声がする。声自体は悪くないのだが、如何せん耳元で騒ぐので良い気持ちはしない。

「お前も夢であって欲しかったよ」

「酷いね、あんなに愛し合ったのに。やっぱり不倫男ってそうなのね」

腹が立つ。不倫していたことは思い出した。しかし、なんだか自分のことではないような気がしてならない。なにか、センスの良い言い訳がある訳ではないから余計に腹が立つ。まるで戦争映画を見た後に「見ているだけなら同罪だ」と言われた気分だ。同罪ではないだろう。沈黙という否定をしていただろうに。最も、過去は変わらない。今の認識だけが独りでに変わっていく。あと少ししたら僕は僕で無くなって、僕の罪を忘れられるだろう。あのひょうきんもの剽軽者のロキが居なくなれば。

少年時代に経験した悪事の一つや二つ。皆忘れて大人になる。時間の流れというのはそういうものだし、人間とはそういう生き物だ。ロキは生き物では無い。もし神がいるのなら、あのロキを指した言葉だろう。そう信じてあまりある程の事を彼はしている。

「なぁ、ロキ。お前は何のためにここに居るんだ」

「何のためだろうね。暇潰し?」

暇潰しと言うには明確すぎる悪意を感じる。私という成功と、僕が壊した幸せ。私の記憶にあるのは、もうそれきりだ。僕の人生は僕の所為で失意の底に堕とされたように感じる。僕だって、何か一つでもあったはずだ、成し遂げた筈なんだ、成功や作り上げた幸せが。

ロキが視界の上からひょっこり顔を覗かせる。その顔はやはりあの若男、大人になった宏樹の顔だ。見たくないよ、消えてくれ。僕の罪悪感を刺激しないでくれ。あの男は生ける罪だ、あの男は人の失敗を笑うものだ。恐ろしい。

「そうだ。ねぇ、カレー作ってよ。パパ」

甘ったるい声でオネダリしはじめた。顔の輪郭をなぞる様に撫でるものだから、一掃気持ちが悪い。

「やだね」

「作ってくれたら消えてあげるよ。飽きてきたし」

数十秒の沈黙が二人の間に訪れる。「さぁ、沈黙さんにも帰ってもらって。決めた?」

それ以外に方法はないと見て、首を縦に振った。宏樹と作ったカレーを思い出す。また僕の罪悪感だ。ロキは僕の心を弄ぶ為に言っているのだろう。それならば、もうそれでいい。どうせそれで終わりだ。

ロキはまた、いつもみたいにニッコリ笑って指を鳴らした。

そもそも料理なんて、あまりしたことが無い。得意である筈なんだが、十数年のブランクは大きいのだ。不揃いで不細工な野菜の切れ端を作る。ロキはそんな僕を横目にハンモックで優雅に寛いでいらっしゃる。ここがどこだか知らないけれど山の奥地、夏の暑さと親密な関係にある場所だと云うことだけはよく分かる。西日が痛いくらいに顔を照らす。ロキの魔法でどうにかならないものだろうか。

それから、野菜と肉を炒めて、鍋ギリギリまで水を入れる。二十分ほど掛けてようやく完成が見えてくる。

「ご飯炊いた?」

ハンモックの上のロキが姿も見せずに話しかける。生米がボウルの中で私を見つめる。「手伝ってくれ」「はーい。パパ」嫌味たらしく駆け寄ってきて、米を研ぎ始めた。米なんて五分でできるだろうから、私はカレーを仕上げる。「出来ないよ。ちゃんと作るんだから三十分くらいかかるよ」私は深く溜息を着いて、焦茶色のカレーを眺めた。


銀色の匙が陶器の器に当たって、心地好い音を奏でる。無機質なテーブルの向こうに座る男は宏樹の顔、ロキの表情。焚き火の光が彼の顔を下から照らす。楽しそうにカレーライスを掬い上げて、無邪気に見つめる。まるで初めて食べたみたいに喜ぶものだから、なんだか苦労が報われた様な気がした。ひとつ、またひとつと掬い上げて口に運ぶ。皿に広がっていたカレーライスはその面積を段々と狭め、遂にさっぱり無くなった。

焚き火の光が大きくなって僕を包み込む。自然と激しい熱に焼かれない、温かみのある、慈悲のある炎だ。ロキの仕業だろう。目を瞑って流れに身を任せてみることにした。

目を開ける。学校の、校舎裏だ。ロキ上下逆さまのまま中に浮いていて、僕の正面に居た。鳥の声、風の囁き、生物の鼓動ひとつない。まるで時間が止まったみたいだ。

「晃一、ここが最後さ」

ロキは暗い声で呟いた。

「最後って言うならさ、もう宏樹の姿なんてやめて本当の姿を見せてくれよ」

ロキは嫌な顔をした。

「僕らは友達じゃない。なかよしこよしの関係じゃないんだ。いいさ、消えてあげよう。あぁ、約束通り消えてやるとも。しかし、ね、消えないで欲しかったと泣きつくんだぜ? あんたは。だいたいあんたみたいな人間が生きていることさえ、気持ち悪いと思うのだよ、僕はね。会いたくなんてなかったさ。あんたはこの度で何を学んだのだろう。何にも学んでいない。いいや、本当に、なんにも学んで居ないね。過ごした日々か無意味だったと思うと笑えてくるよ。決して何も変わっちゃいない。変わってくれと願ったよ。僕らが出会ってから貴方は僕についてどこまで考えていただろうか。僕の事についてどれだけ推理していただろうか。今、宏樹が何をしているか、なんて考えもしなかったんだろう。君がどれだけ下らない人間かをしっかりと理解し給えよ。罪の檻から君を逃がしはしない。悪夢を抱えたままの君を迎えに来よう。『忘れてしまえたら』なんて希望は捨てたまえ。僕が貴方に伝えたい事はこれだけさ」

ロキは最後にニッコリ笑って指を鳴らした。

目の前に降ってきたそれは、私の顔に重たい飛沫を飛ばした。視界が真っ赤に染まる。赤黒い液体と、黄色のような、濃い緑色のような液体が混ざっている。肉片、と言うよりも割れた水風船みたいだった。それを追ってくるように、上履きが二つ。それから制服のブレザーが一枚ヒラヒラと舞い降りた。ブレザーの端から赤い液体が染み込んで真っ白な字の「バカ」の落書きが染まっていく。ゆっくりと浸透してくるそれが、私の存在に色をつける。

宏樹の身体を集める様に抱き締めた。さっきまであったはずの熱が段々と失われていく。冬の劈く様な陽射しが私を責める。息は白く、声は掠れる。頭に血が大量に流入して、目の前が暗くなる。落ち着いて呼吸ができない。




ぼんやりする意識の中で、真っ白な天井を見ていた。薄暗い幕を下ろした様に歪む視界には、誰かの顔がある筈だ。頭に気持ちの悪い痛みが漂って、脳みそをゆっくりと掻き混ぜているみたいだ。やらなきゃいけないことなんて、何も無い。してやれる事なんてもう何も無いんだ。全てを思い出せなくてもいい。ロキのことを、宏樹の事を思い出したい。しかし枕元に彼は居ない。窓から見える景色には、二羽の鳥の姿がある。遠く、広い空を泳ぐその姿に、私は何を思うことも出来ない。

「あら起きましたか」

白衣を着た丸っこい中年が私の瞑想を邪魔した。隣に彼の影は無い。蝉の声は遠く、窓ガラスから漏れいずる微かなものだけだ。力無くベッドに沈み込む。時計の針と、医者の忙しなく確認する音が、真っ白な室内に浸透していく。

身体は思う様に動かない。かと言って心を思う様に動かすことも出来ない。今、宏樹を偲ぶ事は、彼に対してかえって失礼な事だ。私は悪人だ。気付かないだけで私の悪事は、過ちは他にもある、必ず、有る。どんな人間だって、きっとそうだ。気付かないだけで、知らないだけで悪人なんだよ、私達は。

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