過去の約束
また、別の日。
列車から降りて踏切を渡ると、高校時代に戻った気分になる。ソワソワしながら市街地を通り角を曲がると、陸上トラックが見えてきた。会場に入ると観客席に座り込み、前を見据える。
真っ白なコートドレスに、つばの広いハットを被った私。
知り合いが出るわけでも、赤の他人を応援したいわけでもない癖に、なんで来たの? それも特別な日に立ち会うかのような、気合の入った格好で。
髪の毛を指先に巻き付け、暇を持て余す。ゆるりとぬるい風が吹くとじんわりと体が火照った。きっと自分に対して恥じらいを覚えたせい。
周りの席には体操服を着た応援団が列をなして並び、トラックには選手が続々と入場する。彼らは皆、引き締まった肉体で、ウエストに縦の筋が入っていた。
笛が吹かれ、選手が飛び出す。トラックを駆け、波のように動く固まりを見下ろし、胸を締め付けられるような思いに駆られた。
私にも才能があれば今頃同じ舞台に立っていたのに……。
「まだ夢でも見ていんのか?」
冷笑じみた声がかかり急に現実に引き戻される。張り詰めた顔で見た先には、金髪の男が立っていた。ピアスを大量につけた不良じみた外見。なぜ、彼がここに……?
「お前も愚かだよな。こうして過去にすがってんだろ?」
煽るように片眉をひそめ、見下ろしてくる。
私は奥歯をギシリと噛んだ。
「なにが悪いの?」
「悪いんじゃない。馬鹿なんだよ」
相手は口の端をつり上げ、肩をすくめた。
なにが言いたいのか分からないので、スルーする。
静かに試合を見届けた後、外に出た。
人気のない通りにやってきて、二人で向き合う。
「いい加減、夢を追うのをやめろよ」
男は堂々と切り出した。
「俺たちは過去へ戻る。そして全部、やり直すんだ」
なにかと思えば奇妙な誘い。赤茶色の玉を取り出して、押し付けてくる。
私は真顔になった。
「そんなことをしたって、現在を代償に過去を救うだけでしょ」
「現在が消える? 願ったり叶ったりだ」
彼は堂々と言い張る。
思わず表情が固まり、言葉を失った。
「俺は全てを失ったんだ。レベルの高い高校への受験、絵画の賞への応募。その全てが俺には過ぎた挑戦だった。やらなきゃよかったって思ってるよ」
激しい口調で主張する姿には気迫があり、揺るぎない意志がある。
私は後退り、口を半端に開いたまま、停止してしまった。
「お前には分かるまい。端からなにも持ってないやつにはなぁ!」
目をカッと見開き、刃のような眼光がほとばしり、圧をかけてくる。
「なにを。勝手に決めつけないで。私にだって得たものはある」
ムキになって言い返す。
「なら言ってみろよ。お前にはなにが残っている? 高校の三年間を徒労にして、なにになったんだ?」
ぐっ……。
口を閉ざしギュッと拳を握り込む。
「ほら見ろ」
彼は鼻で笑った。
「俺は最初から分かっていたんだ」
虚空を見つめ悟ったように、彼はつむぐ。
「結果だけが全て。なにもかも塗り替わってしまえば、今ある自分もなかったことになる。こんな思いを抱くことすらないんだ」
虚ろな目。なにもかもに絶望し切った態度。私では彼に寄り添えない。
こちらの態度に満足したのか男は勝ち誇った顔で、笑みを引く。
うつむいた私を置き去りに彼は消え、荒っぽい足音だけが遠ざかった。
駅のほうへ向かったのだろうと分かっていながら、立ちすくむ。踏切から視線を外した。
あの日――彼についていけばよかったのかもしれない。
彼とは同じ高校に入ろうと約束した仲ではある。私だって合格を目指すために頑張った。努力とは報われないもの。一日何時間も勉強をした末にやっぱり無理だとあきらめて、平凡な学校を選んだ。
「ふざけんなよ。約束だっただろ?」
通学路の端で、彼は激怒した。
「こんな簡単にあきらめるとか、意気地なしなやつ。いいや、最低な野郎だ」
罵り、背を向け、切り捨てる。
「お前のことなんざ、知らねぇよ」
それっきり……。縁は切れた。
あんなにそばにいたのに。
小学生のころに一緒に家で遊び、宿題をやりあった――なにもかもが、遠い日の夢のよう。
仕方がなかった。陸上のために隣町の高校を選びたかっただけ。
過去はやり直せない。いまさら考えても意味のないことなのに、感傷の影が胸をかすめ、苦々しい気持ちが込み上げてくる。
「なにも起こらないといいな……」
力なくつぶやいた言葉は薄曇りの空に消えた。
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