第5話

 階段を下りて自転車に飛び乗る。加奈ちゃんの進行方向へ進んで、橋の袂を少し離れたところから見守っていると、やはり市街地の方へ漕ぎ出す加奈ちゃんの姿が見えた。

 しかし休日は人出が多い。商店街のアーケードに近付く頃には行き交う人々をかわしながら加奈ちゃんを追う作業となり、信号を境に引き離されたあたりで加奈ちゃんの姿を見失った。

 うーん、ここまでか。想定できる進行方向を見わたすけど、それらしい姿は見当たらない。

 もともとここまでする予定はなかったからこれで満足と自分に言い聞かせるが、クロップドを着たせ、せく、セクシーな加奈ちゃんのシルエットや、お腹の皮ふを想像すると、心臓が高鳴って、帰る気を起こさせない。

「加奈ちゃん……」

 雑踏の音に紛れる程度の小さな声で、名前を口にする。私が立ち止まっても、周囲の人々はよどみなく流れていく。

 そんな流れの先で目に入ったのは、アーケード内の小さなビルに入った2階建ての書店だった。

 ——本好きの加奈ちゃんならきっと、というかどうせあそこにいるんじゃなかろうか。

 書店に近付くが、十数メートル手前で足がぴたりと止まる。

 かなり狭い書店だ。もし加奈ちゃんが中にいたらまさに鉢合わせだ。

 もし加奈ちゃんがいなかったら、鉢合わせじゃない。でもその可能性に賭ける意味などない。

 休日の昼間にシャッターが閉まっているような店の前で、おそらく条例からはみ出て駐まっている自転車の陰に紛れて、周囲の様子をうかがう。

 白、黒、紺、茶……。アーケードを、目の前を文字通り色々な人が通っていく。

 紺。地味な学生が、休日なのに制服を着て、自転車をついて歩いている。スカートの丈は膝下だ。私は加奈ちゃんはこういう部類の人間だと思っていた。

 しかし、実際の加奈ちゃんは違った。いや、あの姿は本当に加奈ちゃんなのだろうか? 加奈ちゃんの姉とかじゃなかろうか?

 本当に暇を持て余しながら、しかし視線は書店に向けたまま、ぼんやりと立ち尽くす。

 これは、加奈ちゃんが書店にいないなら全く不毛な作業だ。

 何をするわけでもなく立っていると、通行人の目は自然とこちらを向くこともあるけど、すぐ無関心に切り替わってくれる。幸い、私の中学生らしい貧相なファッションと貧相な体をナンパの対象にする人もいなかった。

 加奈ちゃんならどうだろう。偏見かもしれないが、あんな攻めた服装をするなら、逆ナンしてもおかしくないぐらいだ。いや、おかしい。加奈ちゃんが逆ナンしてたら、めちゃくちゃ可笑しい。そして、そうであってほしくない。絶対に嫌だ。

 ぎり。

 歯の音か、足をにじった音かわからないが、自ら生み出した変な想像に身をよじる。

 こんな空想を非現実にしてほしい——。

 がしゃん。

 水色の自転車がすうっとバックするのが目の端に映る。

 天に思いが届いたか否か——加奈ちゃんは書店から出て、アーケードのさらに奥へと、自転車を押して歩き始めた。

 自転車片手にナンパするだろうか。いやしない。そういうルールがある。条例で決まっている。絶対にナンパとかしないし、されない。

 脳内に勝手に条例を制定しながら、後をつける。

 街行く人は加奈ちゃんの姿に振り向くというか、横目でチラチラ見ている人が多い。中学生と思しき男子の集団が、目を向けたり逸らしたりしながら「お前行けって」と小突き合っている。おそらくその視線の先にあるのはぐっと押し上げるようなクロップドTシャツの曲線であり、日に焼けていない新鮮な腹部であった。

 ああ、全ての視線を摘み取ってごみ箱に捨てたい。

 ただ、私が加奈ちゃんに向けている目がそれらと別のものであるかと問われれば、自信はなかった。


 敵キャラだらけの一本道を何とかすり抜け、加奈ちゃんが入ったのはハンバーガーショップだった。

 つまようじみたいなやつで倒れないようにする感じの、ややお高めのバーガーが供されるその店に、加奈ちゃんは迷いなく入っていった。

 何だかもう、偶然を装ってバーガーショップに入り、「あれ? 加奈ちゃん!」と声を掛けたい気分だった。

 だけど私の服装はおよそ体温調節のことしか考えていないようなもので、初めて外で会うならもう少しかわいい服がよかった。

 ガラス張りを店の外から覗き込もうとするが、うまいこと反射して見えない。

 仕方なく、その店の入っているビルのアーケードに面したコンクリ造りの外階段を上り、手すりの上から目だけを覗かせて出入り口を監視する。ビルの2階の店舗スペースはがらんどうで、石膏ボードや木工ドリルやらが無造作に放置されていた。休日に誰かが上がってくるような様子はなさそうだ。

 階段に座り込み、少しまどろむような気分で手すりにもたれて息を吐く。

 店内は既に混雑しているから、注文から食べ終えるまで20分、いや、加奈ちゃんはいつもお弁当を食べるのに時間がかかっている印象なので、30分は余裕があるだろう。

 ショルダーバッグからビデオカメラを取り出し、今朝の景色を再生する。映像は思った以上にブレていて不鮮明で、それでも何度も見返したくなるぐらい加奈ちゃんのシルエットの美しさは極まっていた。

 もっと近くで撮れるなら——クロップドがひらめく時のお腹の皮ふを、背中の陰影を、毛穴が見えるまでズームできるかもしれない。

 少し震え始めた指でビデオカメラをしまい、次いで先ほどのノートを取り出す。

 ノートの1ページ目は加奈ちゃんの家の位置を描いている。2ページ以降は白紙だ。これからこのノートを埋めていこうか——。

 ばさっ。

 ノートを折り曲げた拍子に、手すりの隙間から落としてしまった。

 人に当たってないかな。下を覗き込んだその時、凍り付いた。

 ——加奈ちゃん!?

 加奈ちゃんの足下にノートが落ちている。加奈ちゃんはそれを一瞥したあと、どこから落ちてきたのだろうと階段の上を見上げ——そうになった瞬間に、私は急いで身を隠した。

 やばい。階段を上がってくるかもしれない。

 音を立てないよう身をよじりながら、2階の壁の後ろへ転がり込んだ。

 

 2、3分経って、足音がしないことに胸を撫で下ろす。

 体を起こし、階段の下に目を落とすと、そこにノートは無かった。


  ◆


 ノート、どこへ行ったんだろう。

 階段を下りて辺りを見回したとき、蛍光グリーンのベストを着た清掃のおじさんがアーケードをゆっくり歩いていた。

 ごみとして拾われたのなら、それでいい。別に大したことが書かれたノートではない。1ページ目の内容も、長方形と丸で構成された図形でしかない。

 しかし——加奈ちゃんが拾っていたらどうだろう。

 長方形の並びと、意味ありげなマルを見たとき、ぱっと自宅の立地が思い浮かぶのではないか?

 

  ◆


 日が傾き始める中、橋の上からビデオカメラを構える。

 いやあ、ここの橋の上から魚とか水鳥とかよく見えるんですよね。かわいいもんです。

 誰にするわけでもない言い訳をつぶやきながら、河川敷に座る加奈ちゃんに画角を合わせる。

 加奈ちゃんはハンバーガーを頬張っている。私は知らなかったが、あの店はテイクアウトもやっていたようだ。だから10分程度で店から出てきたわけか、と変に納得する。

 川面に反射した太陽光がきらきらと揺れる。その手前でシルエットになっている加奈ちゃんは実に絵になっていた。が、カメラに収めるには、逆光は都合が悪かった。

 ハンバーガーを食べ終わって文字通り黄昏ていた加奈ちゃんは、バッグからおもむろに何か取り出すと、パラパラとめくってまたバッグにしまっていた。

 いつもの本だろうか。それとも——。


 この思いが伝わってしまうのは不安だけど、この思いがそもそも何なのか、自分でもわからなかった。

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