第3話

 朝7時。

 校内は静かで、各教室の電気も点いていない。私のスリッパの音が廊下の向こうまで響きわたる。

 3年B組の扉を開けても、静けさは変わらなかった。

 教室の奥まで進んでベランダに出ると、グラウンドで朝練を始めている部活生がちらほら。そして校門をゆったりと、しかし勤勉にくぐっていく生徒の姿もちらほら。

 柵にもたれて眺めていると、待ち人は思った以上に早く来た。

 加奈ちゃん。

 目立つ容姿というわけではないけど、すぐにわかった。柔らかい背中。シャツの余白を広げる大きめの胸。やや面長の顔を覆うショートカット。

 駐輪場の方へ消えていったその姿を見て、私は徐ろに教室の中に戻り、加奈ちゃんの隣の席へ座った。

 

 先着で教室のドアを開けたのはガリ勉の佐々木くんで、電気も点けずに座っていた私を見て少し驚いていたが、「おはよう」と言えば「ああ、おはよう……」と疑問符をこらえながら返してくれた。

 その後も2人ほど入ってきたあと、ついに加奈ちゃんが教室の入り口に姿を見せた。

 その目は一瞬見開かれたが、すぐ私から目を逸らして私の隣・・・に座った。唇はいつも以上にしっかりと結ばれていた。

「おはよっ」

 私が声を掛けると加奈ちゃんは、視線だけこちらに向け、少しの間を置いて「はあ」と応えてくれた。

 やっと口を開いてくれた。それだけでうれしかった。

 その口元はまたすぐに固く閉ざされたが、こじ開けにかかる。

「ねえ、昨日ね、佳純が『プリンにスープが付いてない!』って言い出して。スープ、スープ、って言うから不思議に思ってたら、スプーンのことだったの!」

 面白いかどうかはわからない。でも普通の人はこのテンションで話しかければ、愛想笑いぐらいはしてくれる。

 そして加奈ちゃんはやはり、にこりともしなかったし、こちらに目もくれずに鞄から本を取り出して読書を始めた。

「ねえ、何読んでるの?」

 やはり答えは返ってこず、唇は「む」の形をして綴じられている。無表情、無関心、無視、無心……。

 ——諦めないから。

 笑顔を絶やさないようにしながら、その横顔の輪郭をなぞるようにじっと見つめ続ける。

 教室に1人、2人と人が増えていくのを背中で感じる。人口密度が高まり、関係の濃度も高まり、「うぃーす」から「おはよう」へ、交わされるあいさつの温度も高まっていく。

 10分以上経っただろうか。

「走れメロス」

 不意に加奈ちゃんが答えてくれた。目もこちらに向けてくれたけど、すぐに逸らしていた。

「走れメロス読んでるんだ! でも、教科書に載ってるでしょー?」

 また加奈ちゃんは沈黙の世界へ帰っていった。

 走れメロスかあ。本当かなあ。学校の教科書で読めるのに、文庫本買うのかなあ。

 時計を見ると、間もなく8時だった。もうすぐ弓道部の朝練勢が帰って来る。加奈ちゃんの隣の席の子は弓道部だったはずだ。

「じゃ、またねっ」

 手を振って加奈ちゃんの隣から離れる。加奈ちゃんは身じろぎもせずに、勝手にどうぞという空気を発していた。


  ◆


 昼休み、いつものように佳純たちと昼食を共にする。

 加奈ちゃんは自分の席でお弁当を食べていて、私たちはその対角、後ろの方の席に集まって食べる。

「あれ? 今日コンビニなんだ」

 私が取り出したビニール袋を見て、佳純が目を丸くする。

「そう。早起きしたからね。お母さんに悪いと思って」

「へー。なんで早起きしたの?」

「それはヒミツ。知りたかったら佳純も早起きしてね」

 佳純がそりゃ遠慮しとくわ、と笑う。隣の結菜も、薫も笑う。

 そうそう、こんな風に。加奈ちゃんの唇も横に広げたいな。

 笑った反動みたいにして、さりげなく加奈ちゃんの方を見る。柔らかい背中が、無口な後頭部が、リスの食餌のように細かく揺れている。

 コンビニのツナマヨおにぎりを頬張ってみると、やたら美味しかった。


  ◆


 放課後、合唱コンクールの練習を終えて帰路につく。佳純たちと別れたあと、寄り道してショッピングモールに向かった。

 1階のクッキーシューのいい香りや果実の生ジュースの誘惑を振り切って、2階の本宮書店に向かう。

 加奈ちゃんのブックカバーが本宮書店だったからだ。

 新品の紙の香りが鼻腔を一新してくれる。新刊、雑誌、新書……小説のコーナーに入ろうとしたとき、思わず身を翻して本棚の陰に隠れた。

 ——加奈ちゃんだ。

 偶然と言うべきか、必然と言うべきか。本当にここの本屋に通っているんだな。

 熱心に、しかし自然に、平積みの単行本を眺めている加奈ちゃん。

 しばらく眺めていると加奈ちゃんは、分厚い、布みたいな表紙に金の文字が書かれてある本を指でなぞり始めた。指のうごきは、実に緩慢で、等速だった。

 ——加奈ちゃんの本になりたいな。

 そんな空想じみた考えが浮かんできた頃に、加奈ちゃんはその本を大事そうに抱きかかえてレジへ進んだ。


 うん、加奈ちゃんの本になりたいな。


  ◆


 加奈ちゃんが買い物を終えてショッピングモールから出たのと十数秒の間隔を置いて、私も外に出た。

 私は別に買い物の用事はなかった。用事は、強いて言えば加奈ちゃんだった。

 加奈ちゃんの自転車の光沢がすうっと駐輪場の角を曲がるのを見て、私も同じ方向へ自転車を漕ぐ。

 日は落ちていたが、2車線の道はまだ車のヘッドライトが忙しい。意外と目立つ反射板を目印に、加奈ちゃんと同調するスピードで数十メートル後ろを着いていく。

 道はそのうち大きな川に差し掛かり、加奈ちゃんは橋の歩道の緩やかなアーチの向こうへ消えていった。


 見通しのいい川沿い。川向こうの、山に阻まれて小規模な住宅地。

 ここから先は、追わなくても大丈夫か。

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