第2話

 不道徳——。

 翌朝、登校中にはそんな3文字が浮かんでいた。

 少し早めに教室に着くと、能勢さんはいつものように自分の席で読書にふけっていた。

 教卓に何か用でもあるようにして、実際は用など何もないのだが、正面から能勢さんをちらりと見る。

 文庫本で、ブックカバーをしているので何を読んでいるのかはわからない。朝の教室の喧騒など存在しないかのように、脇目も振らず、視線は本に吸い寄せられている。

 本当に視線が揺るぎないので、もう少し無遠慮に能勢さんを見つめる。

 涼しげな目元。一本一本が凛とした髪の毛。

 目より下は文庫本に隠れて見えないが——失礼な言い方だが、周囲との関わり合いを捨てているような人にしては綺麗に整っている容姿だと思った。

 能勢加奈。

 能勢さんのフルネームだ。

 クラスメイトなのに能勢さん、能勢さんと呼ぶのも心地が悪い気がしていた。

 加奈ちゃん。

 一度性急な深呼吸をしてから加奈ちゃん・・・・・のそばに歩み寄る。笑顔をつくって、周囲に聞こえない程度の声量で話しかける。

「加奈ちゃん、おはよっ」

 加奈ちゃんは本から目を離しもしない。

 顔をのぞき込み、視界に割り込むようにして続ける。

「……加奈ちゃんさ、昨日、合唱コンの審査員になったでしょ? 嫌だったんじゃない? かな、って、思って……」

 言葉を継ぎ足しながら待っても、加奈ちゃんの視線は揺れなかった。

 無ではない。無視、という鉄の意思。

 固く閉じられた口は意外にも血色がよく、厚めの唇で縁取られている。鼻梁は短く、小鼻はやや横幅が広い。

 ——笑ったらかわいいのに。

 瞬間、加奈ちゃんの眉がぴくっと動く。

 えっ、今の声に出ちゃってた?

 はっとする間に、加奈ちゃんはようやく瞳をこちらに向けた。


 ——「どっか行け」の視線だった。

 

  ◆

 

 授業中、黒板から少し目を逸らして加奈ちゃんの背中を見つめる。紺のブレザーそのままの、柔らかい背中。顔は見えないが、きっといつものように無表情なのだろう。

 ——話しかけてやったのに。

 そんな言葉が脳裏に浮かんでしまう自分を、必死でかき消す。

 加奈ちゃんに話しかけたのも、昨日のあの流れ・・・・を止められなかった自分への言い訳かもしれなかった。

 いや、でも、あの場ですぐに「それっておかしいですよ」と言うのはさすがに難しいと思う。

 ……なんて、また言い訳が出てきてしまう。


 ——笑ったらかわいいのに。

 これはかき消すことはなかった。

 私は加奈ちゃんの笑顔なんて見たことない。だから本当のところはわからない。でも、でたらめでもない。

 私もどちらかと言えば唇が厚い。母からはいつも「たらこ唇は閉じてるとムスッとして見えるから、笑いなさい」と言われる。

 だから私は笑うようなことがあればちゃんと笑うし、笑うようなことがない日も笑うようにしているのだ。

 加奈ちゃんは、笑うようなことがあっても笑わないのだろうか。それとも、笑うような出来事が起きていないだけだろうか。

 退屈な物理の授業中に出るはずもない答えを探してぐるぐる考えていたとき、加奈ちゃんが机の横に掛けてある鞄に手を伸ばした。

 水道水のようにプレーンな横顔がちらりと見える。よかった。今朝、私に向けられた険しい表情がすっかり流れ去っていたからだ。

 そして加奈ちゃんは鞄から新しいノートを取り出し——ぱらら、とめくりつつ、新品の香りを確かめるように2度、3度とにおいを嗅ぎ、それから正面に向いて座り直した。

 乾いた教室で、私の中だけに瑞々しい柑橘が弾けた。

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