気持ち悪いよ。人間の感情とかないみたいで

白河黒江

第1話

「じゃあ能勢、合唱コンの審査員、やってくれるか?」

「まあ……」

 えっ?

 私の教室で今行われた信じられないやり取りは、落ち葉が水路を流れるぐらいすうっとどこかへ行って、見えなくなってしまった。

 川崎先生はもう合唱コンの話は終えて、廊下にガムの包み紙が落ちていたとか何とかの話をしていた。

 能勢さんの柔らかそうな背中の裏でどんな感情が渦巻いているのか、穴が空くほど見つめてもわからなかった、そんな日だった。


  ◆


 中学に入って3度目の合唱コンクールは、私にとってはどうでもよくて、先生と一部の生徒にとっては大事な、最後の合唱コンクール。そして休み時間はいつも本を読んでいて、放課後の合唱コンの練習をしれっと欠席して図書室に向かうこともある能勢さんにとってもどうでもいいであろうその合唱コンクールが来月末に迫っているわけだけど、2か月も前から選任されていた合唱委員と指揮者、ピアノ奏者と違い、本当にどうでもよくて本当にどうでもいいタイミングで決められるのが各クラスから1人選出、というか拠出される審査員であった。

 10月に入り下校時間が午後5時半に早められた日のホームルーム。B組のクラス担任であり英語教師でありそこそこ若くてイケメンであり生徒に人気があるが試験範囲を間違えて教科主任に怒られている姿を目撃されて以来生徒にナメられてもいる川崎先生、通称かわっちが「合唱コンの審査員を決めよう」と言い出した。

「立候補者いないかー?」

 誰も手を挙げない。なぜなら審査員には大したメリットがない。戦前から音楽教師をやっていたとか噂されているベートーヴェンみたいな髪型の大迫先生とともに審査員席に並び、他学年の合唱も全て見て点数を付けるので、自分のクラスの出番以外は常にクラスメイトから離れて一人でいることになる。つまり孤独で、暇な役なのだ。

「審査員はお茶出るぞー」

 かわっちが有って無いようなメリットを挙げ、クラスが半分呆れたような笑いに包まれる。しかしそれが何かの呼び水になったのか、教室の各所でブツブツ、ザワザワと私語が巻き起こり、早く帰りたい雰囲気を発していた集団ははっきりと「早くしろよ」と口に出すが、自分では立候補する気もないようで、波立っているのに澱んでいる水面のようだった。

 そんな泡立つ飛沫の中で誰かがこんな事を言った。

「能勢さんとかいいんじゃないですかー」

 少しの間が空いたが、何人かが口々に「悪くないと思います」「いいと思いまーす」と唱えた。

 何が「いい」のだろう。推薦をしているつもりなのだろうか。教室の前の方の席、微動だにしていない能勢さんの後頭部を目の端に捉えたときだった。

「じゃあ能勢、合唱コンの審査員、やってくれるか?」

 は?

 かわっちの雑な問いかけに、能勢さんが一応返事をする。

「まあ……」

 えっ?

 私の戸惑いを教室の誰も共有していないようで、これにて一件落着とばかりに泡は弾け、かわっちは次の連絡事項を話していた。

 

 何ださっきの。酷くないか。

 能勢さんに審査員を押し付けただけじゃないか。それで能勢さんが拒否しなかっただけじゃないか。

 「能勢さんとかいい」ってのもなんだ。去年の合唱コンでピアノやってた高村くんや藤田さんとか、バイオリン習ってたとかいう杉野くんならまだわかるけど、能勢さんに音楽の素養があるイメージはない。審査員に推す理由といったら——普段から孤独だから。あるいは、合唱コンの練習をサボったペナルティとして。ぐらいだろうか。

 そんな生徒の適当な提案に、適当に乗ってしまったかわっちもイカれている。あの、ただ面倒くさいから押し付けるみたいな退廃に目をつぶるどころか相乗りするなんて、教師としてどうなんだ。人間らしい感情とかないのか。

 そう思って帰り道、合唱委員の佳純にそれとなく話を振る。

「そういえば今日、審査員決めたじゃん?」

「そうだっけ? 決まったんだ」

 ……話題、変えるか。

 夕暮れに目を細めながら歩く間も、能勢さんの無表情な背中とショートカットの後頭部が、ふっと瞼の裏に浮かんでなかなか離れなかった。

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