第42話:花嫁の初夜
夕方になると、緒方家の正門に続々と車が入っていく。結婚式の後に、緒方商会の関係者だけを集めた食事会が催された。
「一葉さん、こちら九十九銀行の羽鳥常務です」
「この度はおめでとうございます」
「こちらは満井商船の満井社長とその奥様です」
「おめでとうございます。一葉様にお目に掛かれて光栄です」
「本当にお綺麗な方だこと……!」
保胤は袴から燕尾服に、一葉は引き黒留袖から黒留袖にそれぞれ着替えて玄関先に立ち、次々と訪れる来賓を出迎える。
(すごい……大企業の頭取ばかり……)
館に訪れる来賓は緒方商会と取引のある銀行・貿易関係者が一同に集まっていた。
(それにしてもこの黒服の多さは一体……)
一葉がちらりと玄関口から外を伺うと、華やかな礼装を身にまとった来賓とは別に、物々しい黒服の男たちが目立つ。
「今日はひと際警備を手厚くしているんです。この機会に悪い犬が入ってくるかもしれないでしょう?」
来賓の列が丁度途切れたタイミングで保胤が一葉に耳打ちした。館の敷地内はもちろん、外壁にも警備役の黒服がぐるっと取り囲み、披露宴という華々しい会とはとても思えないほど物々しい雰囲気だった。
「……そんな意地の悪い言い方しなくてもいいじゃないですか」
「そうやって分かりやすくむくれた顔もいいね」
キッと保胤を睨もうとしたが、次の来賓が到着したのが見えてそれは叶わなかった。 一葉は深呼吸して、花嫁の顔を仮面を被った。
「みなさん、今日はお忙しい中私たちのためにお集まりいただきありがとうございます」
グラスを手に取り、参加者の前で保胤は挨拶を始める。一葉は保胤に肩を抱かれて来賓の前に立っていた。
「みなさんに私の妻の一葉を紹介できる日が来たことを大変嬉しく思います」
会場を埋め尽くすほどの来賓が自分達の方を見ている。一葉は緊張しながら保胤の傍で頭を下げた。
「今日お集まりいただいた方々は仕事の付き合いのみならず、普段私が友と慕い、兄として教えを請い、家族のように大切に思っている方々ばかりです。私たちのために遠郊からいらしてくださった方々もいます。久しぶりにお顔を拝見できて嬉しいです。短い時間ですが今日はどうぞ楽しんでいってください」
保胤の乾杯と掛け声と共にグラスが重なる音が会場に響く。
「乾杯」
保胤は一葉の肩を抱いたまま、彼女が持っていたグラスに自分のグラスをコツンと当てる。
「一葉さん、お酒はイケる口ですか?」
「……嗜む程度でしたら」
「そう、無理はしないでね。僕はみなさんに挨拶に行ってきます。あなたは挨拶周りに付き合わなくてもいいよ。知らない人ばかりだし今日は疲れたでしょう? 頃合いを見て部屋で休むといい」
「い……いいんですか?」
一葉は内心少しほっとした。
「でも寝ないで僕を待っていてください。言っている意味、分かる?」
「あ……」
近づいてくる保胤の顔。問われている意味が嫌でも理解出来てしまい一葉は顔が赤くなる。
「う……」
顔が熱い。保胤の吐息が耳たぶにかかってこそばゆい。
「そう固くならないで。任務だと思えばあなたも少しは気が楽でしょう?」
「は……はい」
保胤は一葉の耳たぶをするりと撫でて身体を離した。
「保胤! 久しぶりだな!」
親しげに保胤の名前を呼ぶ男性たちが近づいてくる。保胤は何事もなかったかのように「やあ」と軽く手を上げた。
「幼稚舎時代の友人たちです」
保胤は一葉に耳打ちして声の主を軽く紹介した。一葉は赤らんだ顔に両手を当ててぺちぺちと叩き、気を取り直そうとした。
「初めまして。一葉さん! 三嶋と申します」
「三嶋様。初めまして!」
「東堂です。しかし、保胤がこんな美人捕まえるとなあ!」
わいわいと友人同士の会話が弾む。保胤の横顔を見ると、いつもより少しリラックスした表情をしていた。
(そんな顔もするんだ……)
黒いマスクをしているので全貌までは見えなかったがそれでも保胤の表情が少し和らいでいたのは分かった。
その内思い出話に花を咲かせ始め、一葉はその輪に入れずにいる。
「一葉さん、すみません。さっきの件、お願いできますか?」
「あ……は、はい!」
一葉の様子を察して保胤がそれとなく促す。一葉は保胤の学友に会釈をしてその場から離れた。
(ふぅ……お言葉に甘えて部屋で休ませてもらおうかな……でも……)
本当にこの場を離れていいのか迷った。花嫁が急にいなくなったりしたら逆に変に思われないだろうか心配になった。
(それに、お養父様から言われていることもあるし……今日中に何か掴まなきゃ……)
緒方家に来てまだ何も情報を掴めていない一葉に養父の慶一郎は苛立っていた。緒方商会が計画している製鉄所建設にどうにか参画したい慶一郎だったが、難色を示されて焦っていた。このまま何の情報も掴めなければ、一葉は喜多治家に連れ戻されることになる。
一葉はきょろきょろと辺りを見渡す。慶一郎と玲子の姿を見つけた。九十九銀行の頭取と何やら嬉しそうに談笑している。
(あっ……)
慶一郎と目が合ってしまった。慶一郎は頭取に断りを入れるような仕草をして、一葉に近づいてきた。
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