第43話

 近づいてくる慶一郎は満面の笑みを浮かべていた。


(うっ……)


 一葉は嫌な予感がした。気づかれない程度に後退りをする。


「素晴らしいな!」

「な、何がでございますか……?」

「流石は緒方商会だ。東京のみならず関西の大企業の頭取まで集まっているじゃないか!」

「……え、ええ。そうみたいですね」

「最初こそ自宅で食事会、しかも立食とは随分と地味なことだと思ったが、大企業のトップの面々が集まることを考えれば勝手知ったる自宅なら警備の手が行き届く。立食ならばかしこまらず会話もしやすい。早速いくつかうちとの商談を取り付けた」


 燕尾服の内ポケットに入れた名刺をこれ見よがしに一葉に見せる。


「……それはなによりです」


(うわー……上機嫌だなぁ)


 慶一郎は商魂逞しく、祝いの場すら商売の契機ととらえているようだった。九十九銀行の社長と談笑していたのも融資への前哨戦だったのだろうと一葉は気づいた。


「それで、お前の方がどうなんだ?」


(……やっぱり)


 上機嫌とはいえ、慶一郎は仕事に対して絶対に甘えを見せない。


「も……もうしばらくお待ちください。私も会社関係者へ挨拶がてら探って参ります」

「ああ。今夜は保胤の花嫁という立場を最大限活かせる場だ。いい知らせを期待している」


 そういって、慶一郎はまた来賓の輪の中へと戻っていった。


(はぁ……やっぱり花嫁が一足お先に退場するのは難しいか)


 重たいため息をついて、一葉は仕事にとりかかることにした。






「…………」


 テラスの手すりにもたれ掛かり一葉はぐったりとしている。先ほどまで緒方商会の動きや計画中の製鉄所建設について何か手掛かりを探ろうと来賓へ挨拶に回った。


 しかし、一葉はひとつ大切なことを忘れていた。


「ム゛リ゛……もう……飲めない……吐いちゃう゛う゛う゛……」


 一葉は酒が弱かったのである。自分でもすっかり忘れていたが酒を飲む機会などほとんどなく、そもそも普段飲酒する環境にないため自分がどこまで酒に耐えられる体質なのか知らなかった。


 例え飲める体質だったとしても今夜の飲酒量は尋常ではなかった。挨拶がてらその都度乾杯をする羽目になり、思っていた以上にワインを飲んでしまったのだ。


「ちょ、ちょっと休憩しよ……そうだお水のも……」


 ガンガンと痛む頭。ふらふらする身体。それでもなんとか正気を保とうとする。


「大丈夫ですか?」


 スッと目の前に水の入ったコップが差し出された。


「あ……申し訳ございません……とんだお見苦しいところを……」


 酔いが回り気持ちが悪くてハンカチで口を抑えたまま、一葉は礼を言った。 


「いくら挨拶回りとはいえ飲み過ぎですよ。無理せんときなはれ」


(あれ……関西の……イントネーション……?)


 一葉はなんとか身体を起こして声の主の方へと顔を上げる。見知らぬ顔の男がこちらを見ていた。

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