第37話
「取……引……?」
「うん」
保胤は親指で一葉の頬をゆっくりと撫でる。柔らな肌ざわりを確かめるように何度も、何度も。
「わ……私の雇い主を話せというのなら断ります……! それだけはぜった――」
「それはもういいんです。いや、正直誰であろうとどうでもいいから」
「だったら何が目的なんですか……? 警察に自首しろとでも……?」
「僕はあなたを警察に渡すつもりはありません。無論、飼い主の元へ返すつもりはない」
「……?」
一葉は怪訝な表情をする。保胤の考えていることが分からない。
「じゃあ……目的は何……?」
「僕が欲しいものは君との秘密です」
「秘密……?」
保胤はこくりと頷く。
「ビジネス的なことを言うとね、婚約者が諜報員だったなんて世間に知られたら緒方商会の信用に関わります。うちの株価は下がり、今進めている事業に影響も出るでしょう。出来ればあなたの正体は誰にも知られたくない」
「そ……それって……私の存在をなかったことにしたいってこと…?」
「平たくいえばそうですね」
一葉の背中に冷たい汗が流れる。さっきまでは重い荷物を下すような安心感すら感じていた死という存在は、こうして他人の手で目の前に突きつけられると一瞬にして恐怖一色に変わった。
「わ……私を……殺すのね……?」
「まさか!」
保胤は即答で否定した。頬を撫でる手を下し一葉の手を強く握る。
「あなたにはこのまま何もなかった顔をして僕と結婚してもらいたいのです」
「は……?」
殺される以上に理解できない提案だった。
「そ……そんなこと出来るわけないでしょ……!?」
「どうして?」
「ど……どうして? どうしてって……どうして……?」
「ふふっ」
「わ……ッ! わら、笑っている場合ですか!」
「いやだって……ふふ……すっごい混乱してるなあと思って」
くくくっと口元を抑えながら笑いを噛み殺している保胤に、段々怒りにも似た感情を抱き始めた。
(この人、私のことおちょくっている……?)
「だ……だってそんなのありえ有り得ないでしょう? このままだと私たちは明日結婚してしまいます! そうなったらあなたは自分を騙していた人間を妻にするということですよ?」
「そうしてくださいと僕は言っているんです」
(な……何それ。この人、何を言っているの)
自分の言っている意味を分かっているか。
自分の立場を脅かそうとしている諜報員を妻にするだなんて。
保胤の目的は一葉の頭では、いや普通の人間には理解できない発想だった。
「一葉さんの飼い主が欲しがっている情報って、どうせ緒方商会が進めている事業の情報でしょう? 僕はそれをあなたに教えてあげます。そしてあなたはそのまま飼い主に報告する。そのためには僕と結婚した方がいいんじゃないですか?」
「そんなことしてあなたに何のメリットがあるっていうの……?」
「あなたが傍にいる」
保胤は握っていた手にぎゅっと力を込める。一葉は少し痛みを感じだ。
「ああ、ごめんね。痛かった?」
「……ッ」
一葉の顔色が変わったことに気づき、力を緩めた。それなのに一葉の顔色は優れない。殺されるわけではないと分かったのに、身体は強張ったままだ。殺意どころか好意を抱かれているとも分かるのに、心は全く落ち着かない。
「ただ、いくらあなたのためとはいえ僕も会社では職責ある立場にいます。聞かれたことを何でも答えるわけにはいきません」
「わ……私に何をしろと言うのですか……?」
「あなたが欲しい情報をあげる代わりに、僕をよろこばせてください」
「それって……ひと情報につき、一笑いさせればいいってことですか……?」
「一葉さんさ、今まで一度も男に抱かれたことないでしょ?」
「………………!!!!!!!!」
一葉は口をぱくぱくとさせながら顔を真っ赤にして固まった。喉に言葉が張り付いて出てこない。恥ずかしさと怒りと困惑。色んなものがごちゃまぜになった感情が全身を駆け巡る。
「あ、やっぱり?」
「な……! な……! そ……! そんなこと……ッ!!」
「諜報員だから色恋指南も受けてるのかなってこの間試しに愛撫してみたらそんな感じでもなかったからさ」
「あ……! あい……! あい……ぶ……って!!!!!」
「僕、別に好きな女性の過去なんか気にしないタチですがあなたが処女っていうのはちょっと嬉しいかも。いや、かなり嬉しいです。まあ、正直聞かなくても分かってましたけどその真っ赤な顔が見たかったのでとても満足です」
勝手なことをベラベラと喋り続けている保胤の頭上に、一葉は鉄槌を落としてやりたい気持ちで一杯だった。
「え!? あれ!? ちょ……ちょっと待って……!」
混乱続きだったが、さっきの保胤の言葉にひっかかる。
「今、試しにって言いましたよね……!?」
「おや」
「……もしかして……あのマドレーヌ……あなたの仕業ですか……?」
「ふふ、気付きましたか。あなたって間抜けな諜報員だけど変なところでは冴えてるね」
笑っている……この男……この男は……!!
「人を馬鹿にするのもいい加減にしてください!!」
一葉は怒りで大声を上げた。
すると保胤は一葉のお腹に掌を置いてぐっと押した。
「では、はっきり言いましょうか。僕の前で裸になってこの身体を使って僕を楽しませてください」
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