第38話
「……ッ!」
保胤は掌で一葉のお腹を撫で上げ、そのまま胸へと移動する。
「僕が望む時はあなたは決して拒否することは出来ません。別に無理強いはしたくないから素直に従ってくれると助かります」
「う……ッ!」
胸の上に置かれているだけだった手が、今度は明確な意思を持った動作に変わる。掬い上げるように強く揉まれて一葉の身体は震えた。
「この間あなたに触れてみて分かったんです。あなたの裸を前に自制出来る自信は僕にはありません。拒否されても泣きわめかれようとも、今度は途中で止められない」
胸のあたりの合わせ目に深く皺が出来る。まるで胸を握りつぶそうしているかのような力強さに一葉は顔を歪ませた。
これまで保胤が一葉を乱暴に扱うことはなかった。なのに今の保胤は明らかな暴力性を持って一葉に意味を分からせようとしている。
「身体を差し出せないなら、君の飼い主を教えてください」
「そんな……ひ……卑怯です……こんな取引……」
はあ、とため息が頭上に降ってきた。
「一葉さん、自分の役目を分かっていますか? 君がどうにも諜報員として拙劣な理由はそこにある気がするなぁ」
「……ッ」
「これはbusinessです。いや、あなたの場合はdutyの方が近いかな?」
「う……? でゅ……?」
「You must certainly fulfill your duties, Is it right?」
(あなたは必ず任務を全うしなければなりません。違いますか?)
冷たい目。自分には意味の分からない英語。いつものように顔半分をマスクで隠しているけれどいつもなら目の表情や柔和な口調で彼が何を考えているのかわかるのに今は別人のように思えた。無機質で冷たくて、ただただ怖い。
そしてなにより、ターゲットであるはずの保胤に諜報員としての未熟さを指摘されたことが歯痒く、自分がとても情けなくなった。
緒方保胤。
いつも飄々としていて掴めない覆面の変人、だけど実は優しくて上品な紳士だなんて思っていた。なんて甘い考えを抱いていたのか。一葉は自分の思慮の浅さ、単純さを悔やんだ。
創業者の血縁だからというだけで緒方商会の重役を担えるわけがない。一流の商人でもあるこの男がどういう人間性なのか、何故思い至らなかったのだろう。なぜ、この男があらゆる諜報員から狙われているのか考えが及ばなかったのだろう。
一葉は唇の震えを噛み殺し、ゆっくりと保胤に問う。
「どうして……」
「うん?」
「どうして……そこまで私に執着するの……? こんな……回りくどいことしなくても私なんて殺してしまえば済む話なのに」
瞳に溜まった涙が頬を伝う。それをじっと凝視する。
「勿体ないな」
「えっ……?」
「舐めてもいいですか?」
あの日、一葉が緒方家へ初めてやってきた夜のように一葉の涙を舐めとった。頬に当たる生温かくて柔らかな感触に一葉は背中が震えて、小さな声を漏らした。どうしてそんな声が出るのか、自分でも分からない。それでも――
「……“いい”って言ってないのに……」
ぐずぐずと泣きながら保胤の行動を非難する。何を言っているのかと思ったが、怖くても情けなく震えていても、ただ保胤にやられっぱなしではいたくなかった。こんな言葉を言ったところで保胤への反撃になるわけでもないのに。
「そうですね。ごめんなさい」
怒られているのに保胤はどこか嬉しそうだった。
「一葉さん、僕さっき紅茶とティーカップをあなたに差し上げた時言ったでしょ? 結婚を機に僕はあなたとお揃いが欲しいと」
「あ……」
保胤はマスクを外し、一葉の涙をぬぐった指をちゅうっと吸いついた。それもまたどこかで見た光景だった。
「あなたって……やっぱり変人です……」
「ふふ……ヘンタイとは言わないのはあなたの優しさですね」
一葉から零れるもの、一葉の身体に付着したものは全て自分の体内に取り込まないと気が済まないかのように思えた。
「一葉さん、僕と秘密を共有しましょう」
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