第36話
「おや、もっと飛び跳ねて驚いてくれるかと思っていました」
一葉は無言のまま、保胤に掌に置かれたものを見つめ続ける。
「一葉さん、これはあなたのものですね?」
掌に置かれたものは、探し回っていた一葉の盗聴器だった。
「僕のベッドの下に落ちていました。恐らくあなたを寝室に運んでエプロンを外した時にポケットから落ちてしまったのでしょうね」
「どうして……それだけで私のものだと思うのですか……?」
悪あがきだと分かっていながら、一葉は保胤に尋ねた。
「応接間でのお父上と僕の会話、あなた聞いていたでしょう?」
「……!!」
「君のお父上は紅茶をあまり嗜まれる方ではないよね。茶葉の違いを分かっていなくて僕が皮肉めいて指摘したとさっき言ったの覚えてる? その場にいないはずの君が笑った。どんな皮肉を言ったか内容までは知らないはずなのに」
「……ッ」
「それで確信したんだ。寝室で拾った盗聴器と同じものが応接間にも仕掛けられていて、それは一葉さんの仕業だって。あなたは紅茶に詳しいから“ダージリンとアールグレイは白米と炊き込みご飯ぐらい違いますよ”なんて、くだらない僕のジョークについ反応しちゃったね。可愛いね、一葉さんって」
一葉は目をぎゅっと強くつぶった。保胤の仕掛けに自分はまんまと引っ掛かってしまったのだ。
「薬入りの焼き菓子も君の仕業だろう?」
ああ、と一葉は心の中で呟いた。目を閉じたまま深呼吸をする。これからやるべきことを考えていた。諜報員だとバレたらやることは決まっている。相手を殺すか自分が死ぬか。
しかし、一葉には端から選択肢はひとつだけだった。
(ああ……これでようやくお父様とお母様は解放されるのね……そして私も……)
自分自身もようやくここで終われる。そう思うと、どこかほっとしていた。重い荷物を下せる瞬間に自分は今立っているのだ。そう思うと死ぬことへの恐怖よりも安堵の方が優っていた。
「それで、あなたの飼い主はどなたなんです?」
「えっ……?」
一葉の心中を余所に、掛けられた保胤の言葉に目を丸くする。目を開けて保胤の顔を見た。
「最近は謂れのない恨みを買うことが多くてね、把握しきれなくなってきているんです。あなたはどなたの差し金なんです?」
(えっ……まさか……まだ私が喜多治家の諜報員とは思っていないの……?)
「そ……それは……言えません……」
一葉は焦った。正体がバレたら自分だけでなく、父と母も殺されてしまうからだ。
「ああ、やっぱり? まあそうですよね。言えないですよね。前の人もそんなこと言ってたし。うーん、どうしようかなあ」
「ま、前の人……?」
「あ、いいですよ。別に無理して言わなくても。正体がバレたらどうせあなたも殺されてしまうのでしょう? この前の人はね、結局警察に捕まったからその後黒幕も分かっちゃって、留置所内で死んでしまったそうです。きっと身内に殺されたんでしょうね。怖い世界ですよねぇ」
「あ……あの……!」
「ん?」
保胤の反応に一葉はひたすら困惑した。以前から命を狙われていると言っていたが、自分の婚約者が諜報員だと分かっても保胤は驚きも怒りも落胆も見せない。あまりにも慣れた態度だった。
(な……なに……この人……)
覆面の変人、というのは名ばかりではなかったと一葉は痛感した。
「じゃあ質問を変えようか。あなたの狙いは何ですか?」
「そ、それは……」
「それも言えない? まあ、そこから親玉が誰か想像ついてしまいますもんね。困りましたねぇ」
(本当に困ったわ……)
一葉は焦り始めていた。呑気に質問を続けるが保胤は警察に連絡をするだろう。そうなったら死ぬタイミングを逃してしまう。
(とにかく私が早く死なないと……トランクにしまった毒薬を飲めば済むんだから……)
「あ、あの……!」
「何か話してくれる気になりましたか?」
「は、はい……ただ、気持ちを落ち着かせてから全てを告白したいのです……絶対に逃げたりしませんから少しひとりにしてもらえませんか?」
「それは出来ないなぁ。だって一葉さん死ぬつもりでしょ?」
「……!!」
「あとね、もうこのタイミングでの自害は止めた方がいい。あなたが死ねば真っ先に疑われるのは喜多治家です」
「ど……どうして……!」
「そりゃそうでしょう。あなたについて一番よく知っているのはご実家でしょうし、家も色々取り調べられます。それともこの場で僕を殺す? あなたの目的が僕の命なら僕が死んだ方がいいのかな」
「……ッ!」
一葉は泣き出したいような気持ちになった。
「あ……あなたの命は目的ではありません……!!」
一葉の大声に保胤は驚いたように両眉を上げた。
「あなたに死んでほしいわけじゃない……! だから……そんなこと言わないで……!」
声がうわずって震える。保胤が死ぬことを考えただけで胸が苦しくて張り裂けそうだった。命ではないにせよ保胤から緒方商会の情報を盗み出そうとしていた癖にどうしてこんな感情を抱いているのか一葉自身分からなかった。
「あなたってやっぱり面白いこといいますね」
保胤の手が伸びて、一葉の頬に触れる。泣きそうな顔を掬いあげ、しっかりと自分の方に向けさせる。愛おしいものを見つめるような、穏やかな目をしていた。
「一葉さん、僕と取引をしましょう」
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