第35話:花嫁の選択
『もしも正体がバレたらこれを使え』
慶一郎に呼び出されたあの日。一葉はまだ諜報員として訓練中で、目の前の小瓶が何なのか見当もつかなかった。
『……これは何ですか?』
『貝毒と水を混ぜた薬だ。飲めば数秒で心臓発作を起こして死ぬ』
思いもよらない言葉にひゅっと息が喉に張り付く。
『うちの諜報員は必ず持っているものだ。失くさないよう大切に持っておけ』
『……つまり正体がバレたらこれを飲んで自害しろということですか?』
『自分が死にたければそうしろ。使い道は任せる』
『えっ……?』
シュッとマッチが擦れる音がした。小瓶から目を離し顔を上げると慶一郎が煙草に火をつけていた。
『飲めば数秒で心臓発作を起こすが、発症後毒は急性に性質が変わり体内から消える。解剖しても検出される可能性は極めて低い。心臓発作の突然死として偽装することが出来る優れモノだ』
『それって……』
『相手に使うもよし、自分に使うもよし。その時の判断はお前に任せる』
細い煙を吐きながら、慶一郎は無表情に淡々と説明する。
『自害するなら止めんが、生きて父親と母親に会いたくはないか?』
『……!』
『お前の正体がバレさえしなければコレを使う機会はない』
慶一郎は煙草を口に咥え、机に置いた小瓶を手に取った。小瓶を軽く振って傾ける。飲めば人が死ぬ毒薬をまるで玩具のように弄ぶ。一葉は慶一郎の顔が見れなくなった。俯いて肩を震わせる。
『私とて“大事な娘”を失いたくはない。お前が任務を全うさえすれば不要なものだよ』
『うっ……! げほっげほっ!』
慶一郎は一葉の顔に向けて煙を吐く。煙たさと恐怖で一葉は涙目になった。煙から逃れようと顔を背けると、慶一郎が一葉の顎をぐいっと力強く掴む。
『――ただし、バレたら必ず使え』
『ひっ……!』
顎を掴む手に力がこもる。食い込んだ爪が痛くてさらに恐怖心が増したが、目を背けることはしなかった。一葉にはどうしても確認したいことがあった。
『も……もし……』
『ん?』
目に涙を溜め、震えながら一葉は慶一郎に問う。
『もしも……私が死んだら……父と母は……どう……なりますか……?』
『ははっ! 遺言のつもりか?』
『……か……解放してください……二人を……自由にして……!』
慶一郎はため息をつく。
『交渉術をもっと磨いた方がいいな。それならお前は自ら進んで自害を選ぶだろう?』
『……ッ!』
一葉は悔しさで慶一郎を強く睨む。
『そんなこと……絶対にしません! ちゃんとあなたの言う通り諜報員として働き続けます! だけど、もし……もしも……私が死ぬことがあったらその時は約束してください!!』
『……いいだろう、養父としての情だ。最後ぐらいお前の望みを聞いてやる』
不気味な笑みを浮かべながら言い放つ。咥えていた煙草を手に持ち替え一息吸い、煙を吐く。一葉は煙たいのを我慢して、慶一郎を睨み続けていた。
『……どちらにせよ、正体がバレても絶対に喜多治家のことは喋るな。喋ったらどの道お前は死ぬことになる。無論、お前の両親もな』
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