第22話

「や、保胤さん……!」

「椅子なんか廊下に運んで……どうされました? 手伝いましょうか?」


 一葉に代わり、椅子を運ぼうと手を伸ばす。


「あ、いえ! お食事をお持ちしたのですがいらっしゃらなかったから置く場所にしようかと思って」

「それはすみません。丁度腹が減っていたところです」

「下で召し上がられますか? お味噌汁温めなおして参ります」

「いえ、まだ仕事が立て込んでいるので書斎でいただきますよ」


 椅子を一葉の部屋へと戻し、夕餉の乗ったお盆を受け取ると、保胤は再び書斎へと戻っていった。


(あ……危ないところだった……)


 こうして、緒方家に来て2日目が過ぎた。


 仕掛ける盗聴器は残りひとつ。

 慶一郎が知れば仕事が遅いと叱責されるだろうが、ひとつひとつだが着実にこなせていることに一葉は少し胸を撫でおろした。






「保胤さんはダージリンがお好きなのですね。もしかして、ここへ来て初めて出していただいたものと同じかしら。あ、アッサムもある。ミルクティーも飲まれますか?」

「ええ、ええ。まさにその通りです! 一葉様、とってもお詳しいのですね!」


 次の日、一葉は三上から台所で紅茶の茶葉を見せてもらった。保胤が紅茶好きだと聞いていたので、どんなものを飲むのか教えてほしいと三上に頼んだのだ。


「……実は私も紅茶が好きなんです。高級品で飲める機会はなかなかなかったですが」


(お父様もダージリンが好きだったなぁ)


 懐かしむように紅茶の缶を見つめる。


 一葉の父・定信は紅茶の国内製造を業としていた。元々、インドやスリランカの紅茶の輸入業を扱う商社に勤めていた。高級品の代表だった紅茶は一般家庭には普及せず、非常に高価なものだった。一葉も家で飲んでいたが試供として取り寄せたものを時々飲ませてもらうぐらいだったが日本茶とは違う芳しさや味わいにすっかり虜になった。


 定信は紅茶の美味しさを上流階級だけではなくもっと多くの一般の人々に広めたいという思いで日本原産の紅茶を作るために事業を起こした。

 しかし、その事業は上手くは続かず、定信は立て直すため喜多治屋の社長・喜多治慶一郎に借金することになったのだ。


「晩餐会のデザートのお飲み物はセイロンティーをお出ししようと思っているんです」

「確か保胤さんの会社でもスリランカの茶葉を取り扱っていらっしゃいますものね」

「あら、それもよくご存知で!」

「あ、え、あはは……」


 一葉は笑って誤魔化したが内心は焦った。緒方商会がいくら有名な大商会であり、嫁入り先だからとはいえ自分のような小娘が事業の詳細まで知っているのは違和感がある。


(入籍前に正体がバレては元も子もないわ。もう少し慎重にしないと……) 


 いよいよ明後日、一葉は保胤と正式に結婚する。

 保胤のたっての希望で式は行わず、緒方家の館で身内だけの婚姻の儀を行う予定となっている。その後、披露宴に代わる晩餐会が予定されていた。


「あの、晩餐会にはどなたがいらっしゃるのでしょうか?」


 一葉は三上に尋ねた。


「緒方家からは緒方商会の役員の方々とお取引会社の社長様、あと保胤様のご学友が出席予定でございます」

「えっ……? それだけですか……? あの、保胤さんのお父様はお見えにならないのですか?」


 三上の言葉に一葉は目を丸くする。


「大旦那様は今、米国での新規事業でお忙しくて帰国が間に合わないようで……」

「そんな大変な時に結婚なんて……大丈夫なのでしょうか? 日取りを変更しなくてもいいのですか?」


 そう言うと、三上は少し困った顔をして黙り込んでしまった。いつも朗らかで優しい三上の顔が曇っていく。


「……その、奥様が亡くなられてから大旦那様と保胤様の仲はあまりよろしくないのです。恐らく日取りを変更しても大旦那様はきっといらっしゃいません」


 保胤の母が早くに他界していることは、慶一郎から聞いていた。母の死によって、どのような亀裂が入ったかは分からないが、息子の結婚の日に不在とは、よっぽど仲が悪いということだ。


「緒方家の親族が誰も出席しないなんて、喜多治家の皆様には大変失礼に当たると存じております。誠に申し訳ございません……」

「そ、そんな! 謝らないでください。三上さんのせいではないのですから……!」


 深々と頭を下げる三上に一葉は慌てる。小さな背中に手を添えて頭を上げて欲しいと懇願する。


(あんなに仲良さそうだったのになぁ……)


 保胤の書斎で見た、家族写真が頭に浮かんだ。写真の中では保胤の父は愛おしそうに保胤を見つめていた。

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