第10話

 嫁入りが正式に決まってすぐのことだった。


 慶一郎に呼び出され、目の前に盗聴器を見せられた時、一葉は息をのんだ。


「いいか? 緒方は英国や印度の在日商会と懇意にしている。お前はその商談に関する情報を集めるんだ」

「……自宅を盗聴なんて意味あるのでしょうか? 商談に関する情報なら会社に忍び込んだ方が……」


 慶一郎はすぐに首を振った。


「緒方商会は大事な取引ほど社内では絶対に行わん。懇意にしている料亭もだ。社員の中に諜報員が潜んでいることを警戒しているからだろう。関係者のみ自宅に招き入れてそこで取引を行うのが常套手段だ」

「そうなのですか……」

「緒方商会に入社させているうちの諜報員によれば、大事な取引には必ず保胤が同席しているそうだ。やつは語学が堪能だからな。重役が直接契約内容を説明できるのも大きいだろう。狙うは保胤が住む館だ」


 喜多治は表向きは金融業を営み財を成してきた。しかしそれは表の顔に過ぎない。


 裏では、違法な手段で他社の有価証券にかかわる情報を集め、その情報を競合他社に売り利益を得ていた。


 表の金融業自体もグレーゾーンな業務形態をしていた。高利で貸付けを行い、債務者の返済が怠るとその家族を誘拐して過酷な労働環境へ斡旋していた。低賃金で働かせて仲介料まで巻き上げる。さらには社員と称して債務者を国内外の支店に駐在させ、裏では諜報員として活動させていた。


 一葉の父・定信は事業を通して慶一郎と知り合った。

 慶一郎にうまく話を乗せられて無茶な事業を展開を行い、借金の申し出の話に乗せられてしまったのだ。それは慶一郎がカモになる人間に金を貸す手段だった。


「今回の保胤との縁談はまさにビッグチャンスだ。このチャンスをモノに出来れば、我が喜多治屋が一介の金貸しからさらに事業を拡大できるかどうかの分かれ目となる……!」

「……緒方家と親類関係になるのですからそれだけで十分ではないのですか?」


 遠慮がちに、しかし若干の嫌悪感を交えながら一葉は慶一郎に尋ねた。


「緒方は決して私情では動かん。だからこそあれだけ会社を大きくしてきた。私が義理の父となったとしてもビジネスとは切り離してくるだろう」

「そういうものですか……」


 慶一郎がここまで鼻息荒くするのも無理はなかった。何せ相手はあの緒方商会。日本の近代化を担う大商会であり、経済界の頂点に立つ企業だからだ。


 緒方商会は元々重工業で財を成したが、今でのその事業は手広く、生糸、茶、海産物などで海外の商会とも取引を行い、莫大な地位と財を築いていた。


 そんな緒方商会の次期社長候補と言われているのが、一葉の結婚相手である緒方保胤おがたやすたね。創業者一族の長子であり、齢26歳にして緒方商会の取締役専務だ。



「緒方家へ嫁いだら、まず保胤の情報を集めろ。プライベートに関することでも何でもいい。奴の行動を探れ。そしてそれを随時私に報告しろ」

「それで何をなさるおつもりなのです……」

「保胤は重要な取引に必ず関わっている。奴の行動範囲が分かればおのずと機密取引に関する情報が手に入る。それを競合他社に売りつければ緒方商会の失墜は免れん」


 慶一郎の計画を聞き、一葉は顔をしかめる。


「ああ、そうだ……言い忘れていたが今回の働き次第で、お前の父親と母親を解放しようと思っている。もちろん、お前自身もな」

「えっ……?」


 突然父と母のことに触れられ一葉の表情が変わる。


「以前、お前の父親と母親は今上海支社にいると言っていたが、いまだに慣れない海外生活で随分苦労しているようだ」

「二人は無事なのですか……!?」

「もちろんだとも。この件がうまくいけばまた三人で暮らせるようになるんだぞ……?」


一葉の瞳が大きく見開く。


「……保胤様の情報を渡せば……本当に私の父と母を解放してくれるのですね……?」

「ああ。約束しよう」


 縋るような目で問う一葉に慶一郎ははっきりとした口調で返した。

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