第8話

「お味、どうでしょうか?」


 味噌汁を三上に味見してもらう。小皿に乗せた汁をくいと飲むと、三上はにんまり笑って片手で丸をつけてくれた。


「ばっちりでございますよ!」


 一葉はほっとした様子で笑った。別の小皿をとって自分も味見をしてみる。


「良かった……少し薄いかと思いましたが保胤様のお好みに合うでしょうか?」

 

 他人の食の好みほど難しいものはない。自分の夫となる人間となるとなおさらだ。なにより保胤と自分の食生活はきっと別次元のものだろうと一葉は思っていた。


 喜多治家に来てからはご飯に汁もの、それになにかおかずが一品ついていればいい方で、粗末な食事が常だった。一葉自身食の好き嫌いはもとよりなく、残飯でも三食食べられるだけマシだと思いながら過ごしていた。自分だけ刺身が出なかったことだけは少し根に持ってはいるが。


 上流階級の保胤が何を食べて育ち、何が好みなのか全く分からない。まずは保胤の普段の食生活を知るところからスタートだ。


「あ、それでしたら――」

「三上さん」


 背後から声がして振り返ると、背広姿の保胤が立っていた。


「あら、今夜はお出かけでございますか?」


 先ほど庭で見かけた着物姿ではなく、ビシッとした背広姿の保胤に一葉は少し目を見張った。男性の服装に疎い一葉でも分かるほど上等な布で仕立てられた紺の背広は恰幅の良い保胤の身体にぴったりと合っていた。


「ええ、今夜は黒菱賓業の常務と会食です。帰りは遅くなるかと思います。おや……」

 

 何かに気付いた様子で台所の中へと進み、保胤は一葉の隣に立った。


「今夜の味噌汁はあおさと豆腐でしたか。これは惜しいことをしました」

「志摩のあおさをいただきましてね。今夜のお味噌汁は一葉様が作ってくださったんですよ」


 へえと言い、隣の一葉の方を見る。見下ろされるような形で目が合い、少し照れくさくなった。


「それください」

「えっ?」


 保胤は一葉が手に持っていた小皿に目をやると一葉の手首を掴んだ。頭を下げ小皿に唇を寄せて小皿に残った汁をちゅぅと吸った。


「……ン、これはなかなか。一杯分残しておいてもらえませんか? 吞んで来るので帰ってからいただきます」


 突然の距離感と行動に、一葉は顔を真っ赤にして狼狽うろたえる。手首を捕んだ保胤の手の冷たさと前髪の感触が妙にこそばい。


「あ……あの……! 手を……!」

「ああ、これは失礼」


 保胤は一葉の手を離し、素早くマスクを装着する。あまりにも一瞬の動きでマスクを外した瞬間は見えなかった。


「では、行ってまいります」


 一葉の頭をぽんと撫でるように触れて台所を出て行った。見送るために三上がその後を追い、その10秒遅れて「あ、私もやんなきゃだ!」と急いで玄関まで見送った。

 広い食堂で三上と共に一緒に食事をとった後、三上は帰っていった。


 敷地から近くにある家屋に住んではいるものの住み込みの使用人ではないようだ。一葉は三上が準備してくれた風呂に入った後は自分の部屋で休んでいた。


「はぁ……」


 べランダの窓を開けて、夜空を仰ぎ見る。空が広い。喜多治家で過ごしていた自室とは大違いだ。一葉は屋敷の離れの物置小屋をあてがわれ、三年間そこで過ごした。窓はなく埃っぽい物置小屋から、こんなホテルの一室のような清潔な部屋で過ごせるようになるなんて思いもしなかった。


 保胤のことはまだどういう人間か分からないが、使用人の三上はとてもいい人だ。彼女を悲しませるような真似はしたくないと思っているが、これから起こる緒方家の騒動に巻き込まれることになるのだろうかと思うと、胸が痛んだ。


 一葉は窓辺から離れ、持ってきたトランクケースを手に取る。ダイヤルを回して暗証番号を合わせると、ガチャリと物々しい音と共にケースが開いた。着替え、下着、櫛、父と母の写真といくつかの少ない私物の下に隠したものを手に取る。


(やるなら今がチャンスよね……)


 一葉が取り出したものは盗聴器だった。

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