5 春病魔
――平成八年の春。
彼は先に社会人となり、青田県で起業していた。翌年、私も隣県の国立
「すっちゃんが具合が悪くなったから、結婚しようか」
「体調不良のせい?」
「自分で思っているより、すっちゃんは体調を崩しているよ」
四月に入学した矢先のことだ。五月の連休に帰省すればよかったが、学校で勉強をしていた。農薬試験の他、調べものなど。
「入籍は九月がいいです」
「お彼岸があるから無理よ」
義母の聞いたこともない設定で一蹴される。うちは、拝むところも人もいない。
「あーちゃん、勤労感謝の日は避けて独自の日がいいな。十一月二十四日とか」
「いい夫婦の翌、十一月二十三日な」
勘違いが続くとは思っていなかった。仕事場や大学院の場が遠かったため、生活は別々にしていた。しかし、同居が必要なほど私は崩れてしまい、中間地点に居を構えた。病魔は激しく私を揺さぶり、朝だけでは手が足りなくなる。元の白鳥の病院から中間地点に転院しており、医師から一つの提案があった。
「日中の面倒をみてくれる方を呼べませんか?」
夫は抵抗したが、幸子が高速道路で駆けつけてくれた。父は、私を「怠け病だ」と笑いものにしたらしいが、怠けていたら皆勤賞がとれるのですか。怠けていたら特待生になれるのですかと心で対峙していた。
後に、父は母のいない家に屈服した。弟の秋山
◆
――昭和五十〇年。
陽太は私とは育てられ方が違った。小学校に入ると母は私に厳しく勉強をさせた。母自身は、教えられる範囲で面倒をみていた程度だったのかも知れないが。
「純生ちゃん、九十五点じゃない。少し直して満点にしましょう」
母は私にはテスト直しをしていたが、ついぞ陽太にはしなかった。
「純生ちゃん、小口経費の方、手伝ってくれないかな」
三月になると会社の経理をしていた母からのお手伝いコールがくる。断る訳がないのだが、これもまた陽太にさせたことがなかった。
私は通信教育も受けていた。提出するテストが全問正解だと満点の小さな賞状が届き、全国でどれだけのレベルかが雑誌に掲載される。提出前に母の直しが入るので、満点以外を取った記憶がない。
これがいけなかったのか。最初の大学、二つ目の大学、遠方の大学院と全てAないし優でなければうちの人々の気が済まなかった。
しかし、世の中には認定単位と言う他大学で履修したものを履修済にしてくれるシステムがある。
「認ってなんだ! 認って!」と、炬燵に入って起きもせずに片手でぺらぺらと成績表を見た父が叫んだ。認定単位について説明をするが右から左へ突風が父の耳に吹いていた。
大学の方でも浸透していない。体育は認定だったが、一番偉い先生しか分からなかった。
英語も認定されたので、第一言語をドイツ語にして第二言語をフランス語にした。四年生まで履修可能だったのでいい収穫だった。鞄は辞書の重みと予習復習の重みもあり、やる気満々だった。大学院では、皆様英語漬けだ。しかも、いぶり出されて熟成中の。面白かったと膝を打つ。病気が落ち着いたとき、この頃の記憶を頼りにラジオと冊子で学び直したものだ。
◆
――平成九年。
私は殆ど家を出られず、誰かが付き添ってくれても難しいのに、母が誘ってくれて、川岸へ母の好きな自然観察をしに散策することがあった。
二人の瞳は、ぶらりと都会の垢を落としに綺麗なものを探していた。河原と間に流れる浅い川、上空をピーヒョロロと啼いたり、足取りの様々な鳥がつがいや親子で歩いたり食べ物を求めていたり、もしかしたら求愛行動かと思えるものもおり、私達の明日など誰も知らないけれども、ありのままを感じ、風に吹かれて自由な雲が白とは言わずに輝きたい色で舞台を作り込んでいる。
「あれはなんという橋だったのか。川の名前も思い出せないけれど、お母さんとよく通ったよね」
「灯篭流しのときは、朝さんと二人とも着物を着て寒がっていたし」
新婚夫婦の新居に母のいる感触は、畔を散策した砂利の心地として刻まれた。
「純生ちゃん、あれはオオハクチョウよ」
「みにくいアヒルの子でしか白鳥を知らなかったよ。仲良しのオオハクチョウがいて、二羽で雛を慈しむんだろな」
生気の抜けた私の返事。母は、故郷の自然豊かな中で育った。遊び相手は野や山にあるものだったのだろう。川や山と遊ぶ天才の幸子さんだ。
「お母さんの小さい頃の渾名はなんていうの?」
「それって、『さっちゃん』だと思うでしょう。実は、『かめすけ』と呼ばれていたのよ」
「苗字からね」
「空気の綺麗なところだね」
訊いてみないと分からないものだ。河原に亀はいそうでいなかった。かめすけか。
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