3 部活と初恋
しかし、心に寒い風が吹いてきた。一年目に管弦楽部のバイオリンで入ったが、退廃的で人間関係の闇に堕ちていったのだ。
一年次の夏期実習で傷を深く負い、そのまま夏休み明けには退学を決めていたが、「純生ちゃんが苦労して入ったのに」との母の押しもあり、やめにくくてただのガリ勉になっていた。特待生になることが、またはオール優に染めることが私の墓場となっていた。
夏期実習で出会った
――平成五年。
「心理学が休講か。チャーンスかも知れない」
既に中庭での新入生勧誘の時期は過ぎていたが、構わないだろう。部員カモーンなポスターへ目をちらちらさせる。気取ってないで、趣味の合うものがいい。
「アニメーション研究会だ」
コンコン。すると返事が。引き戸をガタピシとさせて入る。
「失礼します。秋山純生と申します」
「こんにちは。俺は
三人の男性がいた。入り口の反対側が中庭からの綺麗な光を通す窓際で、煌めいて見えたのが、紅林朝との出会いだった。紺地のキャップにシャツは逆さまの柄が印象派の上をいく。彼が口火を切ってくれた。「好きな椅子にかけて。ガタついているけど」と、砕けて案内してくれた。言葉がほろほろと私に沁みるものだった。
「は、はい。入部希望です」
「セル画の描き方は重之くんが詳しいから教わって」
「秋山さんは、どんなアニメーション雑誌を買っているの?」
「三誌とも買っています。昔は、
「あったね」
「美少女ものとか好きです」
普通に話せてよかった。勉強は帰路と家ですればいいので、なるべく時間を割くようにした。紅一点だったが居心地は悪くなく、仲間に入れてもらえた。次第に渾名の話になる。
「秋山さんは渾名があったかな?」
「うん、高校の頃は『すっちゃん』だって。純生だからね」
「俺は色々あるけれど――」
「紅林先輩はなあ。弄られ系だよな」
皆に見つめられている気もする。私も上の先輩がつけたらしい見下した感じがする紅林先輩の渾名は好かない。だから、私なりの呼び名がいいな。
「朝と書いて『あした』ってとても前向きだと思うの。『あーちゃん』って呼んでもいいですか?」
「……悪いとは思わないよ」
「あの、二重否定の会話が多いですね」
「死ぬ訳じゃあるまいし。そんなもんだ」
これも頻回に登場する口癖だ。学校で会っている上、二十三時過ぎに帰宅すると、「もしもし、あーちゃん」と電話をしていた。真っ黒な有線のものだ。母が受話器を取ると、露骨に拒むつがいの白鳥のようだ。ネックは彼が遠方の
「純生ちゃん、声の低い人から電話――!」
リビングのある一階から、二階の自室へ向けて大きな声を出す。想う人ができたのだから、粗雑に扱わないでほしい。もしかしたら私にもらい手がないかも知れないのに。
「お待たせしました」
「大丈夫かな」
長話の末、私は、「お電話ありがとうございます」と受話器を置く。これは誰に対してもすることだ。ある日、彼の方から同じ台詞を切り際に聞かされた。
「どうしたの?」
「電話したくらいでお礼を言われたのは初めてだったんだよ。新鮮で、俺も伝えようかなって」
「普通のことだから、気にしないでね」
「はは、いいじゃん」
気持ちを聞かせてほしいとの話になった。しかし、電話だとニュアンスも伝わらないし、想い出も電話色になる。
「大学の近くで喫茶店とかいかない?」
「あ、いいね」
最寄り駅は南口を真っすぐいくと大学へ抜ける。けれども、北口へ出てみた。あれこれと話しながら探してみたが、これといってない。南口もなさそうだったが、白い喫茶店を選び、二階に上がった。彼は紅茶で私は珈琲をいただく。切り出さない彼に困ったものだった。
「あのね……」
「分かってはいるんだよ。すっちゃん」
「あのさ……」
「すっちゃん。悪いようには考えていないから」
賑やかな着物婦人の団体様が入ってこられた。砂時計は幾度返せばいいのか。
「……」
「え? いま、あーちゃん……」
私は聞き逃してしまった。でも、多分私への告白だろう。どうしようか。俯いて今更考える。答えは家を出る前から、「イエス」なのに。がっついても恥ずかしいし。
「はい——」
口をついた言葉はシンプルな二文字だった。寧ろ、飾り立てない方がいいと思った。
「俺が払うからいいよ」
彼は晴れやかな表情で、薄いお財布から出してくれた。どうしてか私達は間抜けだから、その足でアニメーション研究会へ歩いていく。坂道をどんどんとおりて。私の肩にぽんと置かれた手がきゅっと恥ずかしくなった。「やややや」と、彼の前へ回り込む。ああ、鼻の下は本当に伸びるものなのか。むにゅむにゅしている。手乗りのインコちゃんが頬を染めたみたいで可愛らしいし。清い交際のまま、二人は恋仲となった。少なくとも私は思っていた。
「初恋がかなって嬉しいわ。このまま結婚ができたら夢のようね」
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