僕らのエピローグ

山白タクト

僕らのエピローグ

芯が打球を捉える小気味良い金属音が、管楽器が幾重にも重なったハーモニーが、「1、2、1、2」とテンポ良く繰り返す掛け声が、どこまでも青い空に吸い込まれ溶けていく。

僕はそんな若さを切り取って混ぜ合わせたような音像を背景に、校舎を後にする。


 白浜の砂が照りつける日差しを反射し、眩しさに目を細める。沖に浮かんだブイとその遥か先に見える水平線。空と海の青を臨む道沿いのバス停は、誰からも忘れ去られたかの様に静かにそこに佇んでいる。潮風が撫でた木造の柱は白く粉吹き、トタン屋根はところどころに赤黒い錆を浮かび上がらせている。表面に細やかな傷が無数に浮いた、ミントグリーンのベンチへと腰掛けた。ひび割れた時刻表は、バスが二時間置きにしか来ない事を、乗車予定の無い僕に知らせる。

何とはなしに、指先でベンチの端の割れた感触を確かめていたら、声を掛けられた。

「うい、お疲れー。待った?」

静けさを湛え張り詰めた水面に、一雫の水滴が落ちて波紋が広がる様に、僕の心も微かにざわめく。

首元辺りで切り揃えられ、幾つかの毛束が外側へと跳ねた黒髪、半袖を捲って肩が露わになった腕は、肩と二の腕の間に境界線を作り、色の違う二層に別れている。

彼女は乱雑に制汗スプレーを上下に振り、身体へと吹き付けた。

僕の隣に腰掛ける。淡いシトラスの香りが、僕の鼻先をくすぐった。


「何でいつもここで待ってんの?校門とか、他に待ち合わせる場所あんじゃん」

思春期の多感な心は、男女関係の噂にひどく敏感で、察知と拡散が瞬く間に行われる。

僕と彼女との関係性を、誰かのひと時のゴシップとして扱われる事が嫌だった。

「男女が一緒に歩いてるだけで、カップルがどうとか騒ぐやついるだろ?ああいうノリ、鬱陶しくない?だから、そういう奴らの目に入らない様に、って事」

素直に心に浮かんだ言葉を、シリアスにならないよう、やや浮ついた口調で話す。 

「ふーん。別に誰も見てないし気にしないと思うけどなー」

言葉通り何も関心を示していない目で僕を見やった後、片手に握られていた二本の瓶のうち一本をこちらに差し出した。

「ほい」

受け取ると、冷気で結露した瓶の冷たさが肌に染み入る。手に付いた水滴が夏の陽気を受けた身体に心地良い。『ラムネ』と昭和時代のデザインを思わせる筆記調が、筆で描かれたような波の絵の上に印字されている。

「ああ、ありがと。どしたん、これ?」

この辺りに、ラムネを販売する店なり自販機なりあったかと思い、疑問を口にする。

「教頭先生が野球部に差し入れしたラムネ、失敬して来た。大丈夫、人数分以上にあったし」

彼女は盗みを働いた言い訳を自分の言だけで説明し、終わらせる。

「それ、僕に言って大丈夫か?」

肩をすくめ、彼女に問う。しかし、暑さで火照る身体と頭に、この冷たさは嬉しい。具体的な顔を一人も思い出せない野球部の面々に、若干の遠慮を感じつつもありがたくいただくことにする。

彼女は飲み口にはまったビー玉を、付属していた小さな突起の付いたプラスチックで力任せに押し込み、勢いよく溢れ出た泡を慌てて口で迎えている。僕はその様子を見て、ベンチになるべく水平になる様意識して瓶を置き、慎重にビー玉に力を加えて彼女の様を反面教師とする。音も無く瓶の中の水面へと落下したビー玉は、淡い水色の光を乱反射させ、見る者に清涼感を与えてくれる。

彼女が天を仰ぐかの様な体勢で、勢いよくラムネを口に含む。規則的に喉元が動き、肌に浮かんでいた汗が一筋流れ落ちる。

その様子を艶かしく感じ、僕の心音がいささか早くなる。

眼前に映る、寒色に染められた空と海が、不意に高鳴った僕の心臓を少しづつ落ち着けた。


「昨日、ママがさ……」

彼女は自らの母の事を『ママ』と呼ぶ。日頃、彼女の同級生や後輩達は、彼女の事をがさつや大雑把と表現する。彼女自身の、明るく物怖じしない性格もまた、その印象を強めているのだろう。でも僕は、彼女が白やピンクで彩られたお菓子が好きな事、『ちいかわ』のハチワレのぬいぐるみをいくつも所持している事を知っている。

「大学の件、やっと許してくれた。だからさ、あたし行く事にするよ」

彼女が隣町の大学へ進学を希望しているのは知っていた。だが、彼女は家族、主に彼女の母と意見を違え、なかなか理解が得られずにいた。

隣町とはいえ、地図上で辺鄙な位置に記されているこの町から通うには、海を大きく迂回しなければならない。通学時間を考えると、あまり現実的では無い。

「ママの妹が大学の近くに住んでるからさ、そこに住ませて貰う事になった」

親戚の家に住まわせることで、少しでも安心感を得る。彼女の母が考えた最大限の譲歩だったのだろう。

「良かったな。前々からずっと行きたいって言ってたもんな」

心からの言葉を彼女に伝える。彼女は少しはにかんだ笑みを僕に向ける。潮騒の音が風に乗って僕の耳へと届く。

「ね、袋とか持ってる?」

彼女が僕に尋ねる。ショルダーバッグから、コンビニの袋を取り出し手渡す。いつ仕舞い込んだのか思い出せないその袋は、無数の折り目としわを刻み込んでいた。

彼女は先程飲み終えたラムネの瓶を袋に入れて固く縛り、勢いよく地面へと叩きつけた。

アスファルトの硬さに耐えかね砕け散った瓶は豪快な音を立てる。

「びっくりした!急に何だ……?」

いきなりの出来事に驚き、思わず身を後ろへ引く動作を取るが、ベンチの背もたれに阻まれる。

彼女は地面に落ちた袋の口を開け、鋭い破片の切先で手を切らぬ様、慎重に中を探る。

「あった。はい、記念にあげる」

人差し指と親指でつまみ上げたビー玉をこちらへと差し出す。僕は無邪気な表情を浮かべる彼女を見遣ってから、おずおずと受け取った。

ビー玉越しに見る彼女の姿は、まるで氷に閉じ込められたおとぎ話のお姫様を思い起こさせる、どこか幻想的な光景だった。

「記念って…?」

一応、尋ねてみる。

「そりゃあたしの進路がちゃんと決まったことと、あとさ、あたし達の関係もこれからは変わるじゃん?」

彼女はほんの少しの紅潮を頬に浮かべ笑う。

「そうかな?基本的には変わんない気がするけど?」

「そんな事無い!だってさ、あたし来年から大学生でしょ?それって大人じゃん」

僕の顔を覗き込み、上目遣いで言う。

「もう、こうやってこそこそ会わなくて良くなるよ?」

彼女の言う通りかも知れない。今までは人目を避けて、逢瀬を繰り返した。小さなこの町では、いつ何時、誰の目に留まるか、噂が広まるか分からない。必然、室内で会う事が多くなる。その度に彼女のしとやかな肌に手を這わせ、唇を重ね合わせた。

「それもそうだな。じゃあ、これまでの僕らの関係は終わりだ」

僕は背筋を伸ばし、潮風を胸いっぱいに吸い込む。爽やかな開放感が心を駆け抜けていった。

「そうだよ。そして、新しい関係の始まり」

夏の太陽に向かって咲くひまわりの様な、屈託の無い笑顔を僕に向ける。


「じゃあ改めて、よろしくね、先生」


彼女は僕に身を預け、瞳を閉じた。

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僕らのエピローグ 山白タクト @takuto_yamashiro

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